大井氏館1. 城のデータ[所在地] 東京都大田区大森中[築城年] 鎌倉時代[築城者] 大井氏か、蒲田氏か[遺 構] なし[別 称] 大森堀の内[形 状] 平城[登城年] 2018年5月4日(※トップ写真:大井氏館・三輪神社社殿)2. 城の歴史大井氏館は鎌倉時代に大井氏の居館であったとされる。館跡と推定される現在の三輪神社の説明板によると、北条時頼時代(1247~1259)における陣屋の旧跡であるとも言われる。館跡付近の堀の内という地名の由来は江戸時代までさかのぼり、館の周囲に濠を巡らせた名残だという。堀の内は江戸時代、幕府の直轄地として代官がおかれた。3. 城の見どころ大井氏館は京急梅屋敷駅から徒歩10分ほどの場所にある。呑川が巡る微高地にあり、かつては東側を陣川が流れていたことから、周辺を川に囲まれた要害の地に築かれたといわれる。ただし、三輪神社付近が館跡といわれるが、遺構らしきものは何も残されていない。三輪神社の入口に掲げられている説明板などで館跡があったことをわずかに伺...2018.05.04 09:00
行方氏館1. 城のデータ[所在地] 東京都大田区蒲田[築城年] 戦国時代[築城者] 行方氏[遺 構] なし[別 称] なし[形 状] 平城[登城年] 2018年5月4日(※トップ写真:行方氏館・円頓寺本堂)2. 城の歴史行方氏館は、戦国時代に北条氏の家臣である行方(なめかた)直清によって築かれたとされる。行方氏は周辺の六郷領を支配していた。直清は1590年の豊臣秀吉の小田原征伐の際に討死したと伝えられている。その後、直清の弟である日芸(にちげい)が行方氏館跡を円頓寺とし、直清供養のため塔を建立したという。この供養塔が現在も残っている。3. 城の見どころ行方氏館は京急蒲田駅から北へ直線距離にして約500m程の住宅街にあった屋敷跡である。現在の円頓寺の境内付近にあったとされるが、現在は遺構らしきものは何も残されていない。(下写真:円頓寺山門前)2018.05.04 09:00
梶原氏館1. 城のデータ[所在地] 東京都品川区大井町[築城年] 戦国時代[築城者] 梶原氏[遺 構] なし[別 称] 伝梶原氏館[形 状] 平城[登城年] 2018年2月24日(※トップ写真:梶原氏館・来福寺本堂)2. 城の歴史梶原氏館は、後北条氏の家臣で馬込村(現在の大田区~品川区)を領有した梶原氏の居館である。現在の来福寺から梶原稲荷神社にかけての範囲が居館跡とされている。鎌倉時代、源頼朝に仕えた梶原景時の旧跡とも伝わるが、後世のこじつけの可能性が高いとされる。3. 城の見どころ梶原氏館は、JR大井町駅付近の来福寺から梶原稲荷神社付近が館跡とされるが、遺構などは残っておらず、詳細は不明である。ただし、周辺の地形からは少し高い位置にあり、台地上に館跡が設けられたとみられる。来福寺は平安時代の990年創建の真言宗寺院である。高台にあるため、かつては品川の海が望めたという。ということは、館があった当時も周辺を望めた可能性が高い。都内にありながらとても静かな境内なので、整備され...2018.02.24 09:00
金鑵城1. 城のデータ[所在地] 兵庫県小野市昭和町[築城年] 不明[築城者] 中村氏[遺 構] 曲輪、土塁、堀切[別 称] 金釣瓶城、金鑵山城[形 状] 山城[登城年] 2018年2月8日(※トップ写真:金鑵城・堀切と木橋)2. 城の歴史金鑵(かなつるべ)城は、戦国時代に播磨国を治めていた赤松氏の有力な家臣・中村氏により築かれたという。戦国時代に城が築かれる以前にも、弥生時代の集落が営まれていた。城は青野ヶ原台地上の遠望が利く要害の地を選んで築かれた山城である。ここからは河合城、堀井城、小堀城など室町時代から戦国時代にかけて築かれた中世城郭を見渡すことができる。中村氏の後、三木城の別所氏の持城となったようである。3. 城の見どころ金鑵城はJR加古川線の河合西駅から徒歩20分ほどの距離にある。戦国時代に築かれた小規模な城郭ではあるが、青野ヶ原台地上にあるため、周辺の遠望がとてもよく利く。現在は夢の森公園となっており、史跡が保存整備されているので、非常に散策がしやすい。城の縄...2018.02.08 09:00
江戸城1. 城のデータ[所在地] 東京都千代田区千代田[築城年] 1456年、1606年、1622年、1637年[築城者] 太田道灌、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光 [遺 構] 各曲輪、天守台、水堀、石垣、門、橋など[別 称] 千代田城[形 状] 平城[登城年] 2006年5月31日、2012年12月4日、2013年5月1日、2015年12月23日、2016年12月23日、2018年1月2日(※トップ写真:江戸城・富士見櫓)2. 城の歴史江戸城の歴史は古く、江戸に初めて城を築いたのは扇谷上杉家の家臣・太田道灌だった。本格的な近世城郭となるのは徳川家康が関東に入った後のことである。道灌が築いた当時の城は天守も石垣もなく、中世の城郭であった。 江戸に幕府を開いてからは大々的に天下普請の名の下、諸大名に築城を担当させ、半世紀もの歳月をかけて日本最大の城郭が誕生することになる。徳川将軍家の威光をかけて三度日本最大級の天守があげられたが、火災により焼失してしまっている。以後は天守台のみ...2018.01.02 09:00
諏訪原城1. 城のデータ[所在地] 静岡県島田市菊川[築城年] 1573年[築城者] 武田勝頼[遺 構] 土塁、堀、馬出など[別 称] 牧野城、牧野原城、扇城[形 状] 山城[登城年] 2017年12月30日(※トップ写真:諏訪原城・二の曲輪北馬出の復元門)2. 城の歴史遠江攻略を目指す武田勝頼は、1573年に高天神城攻めの拠点として、馬場信春に命じて大井川西岸の牧ノ原台地上に築城させた。1575年の長篠の戦いにおいて武田軍が敗北を喫すると、徳川家康は諏訪原城を取り囲み猛攻を仕掛けて落城させる。その後、家康は大改修を実施し、駿河侵攻の拠点とした。1582年に武田氏が滅亡すると、諏訪原城の存在意義が薄れ、1590年に廃城となった。その後、城跡は荒れた状態となっていたが、明治初年に徳川最後の将軍である徳川慶喜が駿府に移った際、従ってきた旧幕臣が開墾を行い、一帯を茶畑にしている。3. 城の見どころ諏訪原城は、大井川を背後に控える台地先端に2つの巨大な空堀を配置し、その内側に本曲輪、...2017.12.30 09:00
御着城1. 城のデータ[所在地] 兵庫県姫路市御国野御着[築城年] 1519年[築城者] 小寺政隆[遺 構] 土塁、堀[別 称] 茶臼山城、天川城[形 状] 平城[登城年] 2017年12月12日(※トップ写真:御着城・本丸跡)2. 城の歴史御着城は室町時代、赤松氏の播磨支配の拠点で、のち小寺氏の居城となった。1519年に小寺政隆が築城したといわれる。城内に山陽道や城下町を取り込んだ惣構えの平城であった。近世の絵図によると、中核部分に主郭と曲輪、西から南に天川を用いた二重の堀、北と東に四重の堀があり、外郭部に屋敷や町家が見られる。1575年、織田氏の中国地方攻略で、羽柴秀吉が播磨に侵攻する。小寺政職は家老の黒田孝高(官兵衛)の進言により当初織田氏に通じたが、別所氏や荒木村重の謀反に同調したため、1579年に羽柴秀吉に攻められ落城、その後廃城となった。3. 城の見どころ御着城は姫路市の南東部・天川下流域東岸に位置する。御着駅から徒歩10分ほどにあり、現在本丸跡が御着公園となっ...2017.12.12 09:00
水ヶ江城1. 城のデータ[所在地] 佐賀県佐賀市中の館町[築城年] 不明[築城者] 龍造寺康家[遺 構] 堀跡[別 称] なし[形 状] 平城[登城年] 2017年12月2日(※トップ写真:水ヶ江城・龍造寺隆信公碑)2. 城の歴史水ヶ江城は15世紀中ごろ、龍造寺康家によって築城された戦国時代の平城である。当初は館程度の規模であったが、龍造寺家兼が改修し城塞化した。龍造寺隆信はこの城で生まれたと伝わる。隆信が龍造寺本家の当主になると、弟の龍造寺長信に城主として守らせている。龍造寺氏は村中城(現在の佐賀城)と、この水ヶ江城を拠点に有力な戦国大名に成長していった。その後、鍋島氏が佐賀城を築城したことに伴い、水ヶ江城は廃城になり、龍造寺氏系統の家臣団の屋敷地となった。3. 城の見どころ水ヶ江城は、村中城とともに龍造寺氏の基盤となる拠点城郭であり、分家の水ヶ江龍造寺氏代々の居城であった。内部は5つの館(西の館、中の館、東館など)に分かれており、それぞれ堀が巡らされていたという。のち、鍋...2017.12.02 09:00
佐賀城1. 城のデータ[所在地] 佐賀県佐賀市城内[築城年] 1596~1615年[築城者] 鍋島直茂・勝茂[遺 構] 鯱ノ門、天守台、石垣、堀など[別 称] 亀甲城、栄城[形 状] 平城[登城年] 2006年3月20日、2017年12月2日(※トップ写真:佐賀城・鯱の門)2. 城の歴史戦国時代に北九州の大名であった龍造寺隆信は村中城(佐嘉城)を本拠としていた。1584年、隆信は「沖田畷の合戦」で敗死、家臣の鍋島直茂が龍造寺家臣団を統率するようになる。後に直茂は龍造寺主家の実権を握り、1607年に佐賀城の前身である村中城に入った。 直茂は城の改修を逐次実施、1608年からは鍋島主水が総奉行を務め内堀・外堀が完成、勝茂の代である1611年には天守、本丸御殿も完成した。1726年に火災により天守、本丸御殿が焼失したが、10代直正の代に本丸御殿が再建された。 3. 城の見どころ 佐賀城は有明海によって形成された水郷地帯(クリーク)の地形を利用して築かれた平城であり、広大な方...2017.12.02 09:00
高知城1. 城のデータ[所在地] 高知県高知市丸の内 [築城年] 1601年 [築城者] 山内一豊 [遺 構] 天守、本丸御殿、納戸櫓、黒鉄門、西多聞櫓、東多聞櫓、詰門、廊下橋、追手門、土塀、石垣、堀など [別 称] なし [形 状] 平山城 [登城年] 2005年8月13日、2017年11月16日(※トップ写真:高知城・北から見た天守)2. 城の歴史南北朝時代には現在高知城がある大高坂山に大高坂松王丸の居城があったといわれる。その後1588年、四国を支配した長宗我部元親がそれまでの岡豊城からこの地に本拠を移していたようである。関ヶ原の戦い後、戦功のあった掛川城主・山内一豊が土佐一国を賜り、浦戸城に入城した。1601年、一豊は大高坂山に城を構築し、1603年には天守を持つ高石垣造りの城が完成する。1610年には二代藩主忠義はこの地を「高智山」と改名し、これが現在の高知の名に至っているという。3. 城の見どころ高知城は全国12の現存天守のうちの一つを持つ城である。...2017.11.16 09:00
広島城1. 城のデータ[所在地] 広島県広島市中区基町[築城年] 1599年[築城者] 毛利輝元[遺 構] 石垣[別 称] 鯉城[形 状] 平城 [登城年]2006年3月5日、2017年9月3日(※トップ写真:広島城・天守南面)2. 城の歴史戦国時代に中国地方を制した毛利元就の孫・輝元がそれまでの本拠・吉田郡山城から瀬戸内海に面した太田川の河口の三角州に居城を改める事を決意した。1589年頃から堀普請などを始め、1598年頃には天守も完成したという。関ヶ原の戦いで毛利氏は防長二国に減封となり、代わって福島正則が49万8000石で広島に入る。正則も大々的な城の改修を行うが、石垣の無断修復を幕府から咎められ、福島氏は改易となる。その後、紀州・和歌山城主であった浅野長晟が入城し、以後明治に至ることになる。3. 城の見どころ広島城は太田川の三角州(デルタ)地帯に築かれ、分流して流れる河川を天然の堀とした平城である。縄張は天守のある本丸を中心に、その南側に二の丸、本丸と二の丸を取り...2017.09.03 09:00
久保田城1. 城のデータ[所在地] 秋田県秋田市千秋公園[築城年] 1603年[築城者] 佐竹義宣[遺 構] 御物頭御番所、土塁、石積[別 称] 矢留城、秋田城[形 状] 平山城[登城年] 2013年5月5日、2017年7月8日(※トップ写真:久保田城・御隅櫓)2. 城の歴史常陸の戦国大名・佐竹義宣は、関ヶ原の戦いにおいて西軍側についたため、1602年出羽国仙北・秋田六郡に国替えとなった。その翌年、新たな居城として秋田の地に久保田城を築くことになった。渋江内膳政光、梶原美濃守政景を普請奉行とし、1604年には義宣は早くも久保田城に入っている。その後も城の普請自体は続けられ、1630年代に至っても三の丸の普請は続けられており、義宣の入城後20年以上を経てようやく完成に至ったようである。その後、久保田城は歴代佐竹氏20万石の居城として明治維新まで続くことになる。3. 城の見どころ久保田城は、秋田市街の中心、標高45mの独立丘・新明山を利用して築かれた平山城である。その構造は本丸、...2017.07.08 09:00