広島城

1. 城のデータ

[所在地] 広島県広島市中区基町

[築城年] 1599年

[築城者] 毛利輝元

[遺 構] 石垣

[別 称] 鯉城

[形 状] 平城  

[登城年]2006年3月5日、2017年9月3日

(※トップ写真:広島城・天守南面)


2. 城の歴史

戦国時代に中国地方を制した毛利元就の孫・輝元がそれまでの本拠・吉田郡山城から瀬戸内海に面した太田川の河口の三角州に居城を改める事を決意した。1589年頃から堀普請などを始め、1598年頃には天守も完成したという。

関ヶ原の戦いで毛利氏は防長二国に減封となり、代わって福島正則が49万8000石で広島に入る。正則も大々的な城の改修を行うが、石垣の無断修復を幕府から咎められ、福島氏は改易となる。その後、紀州・和歌山城主であった浅野長晟が入城し、以後明治に至ることになる。


3. 城の見どころ

広島城は太田川の三角州(デルタ)地帯に築かれ、分流して流れる河川を天然の堀とした平城である。縄張は天守のある本丸を中心に、その南側に二の丸、本丸と二の丸を取り囲む形で三の丸、そのさらに外側に外郭を配している。浅野氏時代には88基もの櫓を構えていたといわれるほど堅固な城郭であった。

ただし、現在城跡として残っているのは、本丸と二の丸とそれを取り囲む広大な水堀のみである。方形の二の丸には平成6年に二の丸表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓が復元されている。太鼓櫓はその名の通り二階に時太鼓を置いてあって、城内に時を知らせていた。太鼓櫓から平櫓へと続く多聞櫓は長さにして35間(約63m)もあり、実に広大である。また建物は、真壁造り(柱や長押を外側に出す壁の仕上げ方)で、古式の姿を見せてくれる。

(下写真:二の丸太鼓櫓)

二の丸表御門は広島城の正面玄関であり、木橋を渡ったところにある櫓門である。隣接して平櫓が構えられている。

(下写真:二の丸平櫓)

(下写真:二の丸表御門)

狭い二の丸から水掘をこえて中御門跡を過ぎると本丸である。本丸も南北に長い長方形をしており、北側が一段高く本丸上段には天守や本丸御殿が築かれていた。本丸下段には馬場・米蔵があった。現在本丸の北西には五重の天守がある。戦前まであった天守は1945年の原爆によって倒壊してしまったため、昭和33年に鉄筋コンクリートで復興されたものである。今は天守がただ一つ独立してたっているが、かつては天守の南と東側に三重の小天守を並び、それを渡櫓でつなぐ連結式天守だった。112万石の太守・毛利氏の本拠に相応しい構えであったことだろう。

(下写真:天守東面)

現在の天守だけをみても外観の真壁仕上げ、下見板張、最上階に華頭窓、というようにつくりは古風といえるが、非常に威厳に富んでおり、力強く、それらは戦国時代西国を制した太守・毛利家にふさわしいといえる。ただ少し残念なのは最上階の防護用のフェンス。景観として天守を仰ぎ見るに邪魔なものだと思う。天守内部は広島の歴史、広島城や広島藩所縁のものなどが展示されていて、最上階からは広島市内を一望できる。広島城は市内の中心地にあるため、周りは多くの近代建築が立ち並んでいるが、広島という大都市の中でも、他の高層建築に負けずに広島城は現在においても威容を誇っている。


4. 城のポイント

①西国の太守毛利輝元が築いた城 ⇒中国を制する西国一の大城

②本丸、二の丸の堀と水堀

③復元された天守、近年復元された二の丸表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓

0コメント

  • 1000 / 1000