高知城

1. 城のデータ

[所在地] 高知県高知市丸の内  

[築城年] 1601年  

[築城者] 山内一豊  

[遺 構] 天守、本丸御殿、納戸櫓、黒鉄門、西多聞櫓、東多聞櫓、詰門、廊下橋、追手門、土塀、石垣、堀など  

[別 称] なし  

[形 状] 平山城  

[登城年] 2005年8月13日、2017年11月16日

(※トップ写真:高知城・北から見た天守)


2. 城の歴史

南北朝時代には現在高知城がある大高坂山に大高坂松王丸の居城があったといわれる。その後1588年、四国を支配した長宗我部元親がそれまでの岡豊城からこの地に本拠を移していたようである。

関ヶ原の戦い後、戦功のあった掛川城主・山内一豊が土佐一国を賜り、浦戸城に入城した。1601年、一豊は大高坂山に城を構築し、1603年には天守を持つ高石垣造りの城が完成する。1610年には二代藩主忠義はこの地を「高智山」と改名し、これが現在の高知の名に至っているという。


3. 城の見どころ

高知城は全国12の現存天守のうちの一つを持つ城である。特に四国には4つの現存天守が残っており、四国は城の宝庫である。また本丸御殿と天守が一体となっている構造の城が現存するのは、この高知城が唯一である。江戸時代度重なる火災で何度も焼失したらしいが、その都度再建され現在に至っているのは先人達の努力があってこそのものである。

まずは高知城の大手である追手門である。1801年の再建、両脇石垣の上に渡櫓を載せた形の櫓門であり、非常に巨大でありながら格式の高い構えをしている。まさに高知城の表門に相応しい城門である。追手門から天守もセットで見えるのがとても美しい。

(下写真:追手門)

追手門をくぐり、石段を駆け上がっていくと三の丸に入る。三の丸の石垣は崩壊の危険性があったことから、平成16年から21年度にかけて改修工事が実施され、綺麗な石垣積みが再現されている。石垣の高さは約13mで、穴太衆による野面積みで多くの面が構築されている。

(下写真:三の丸の石垣)

三の丸から見えるのは本丸と二の丸を繋いでいる詰門である。本丸と二の丸の間は空堀で区切られているが、その間を繋ぐ二重の城門であり、全国的に見ても現存例が少なく珍しい。一階は塩蔵、二階は警護の兵士の詰所となっていた。

(下写真:詰門)

二の丸は広大な敷地が広がっている。江戸時代は二の丸御殿があり、藩政の中心はそこにあったが現在建物遺構は残っていない。二の丸から詰門に入り、廊下門を抜けると本丸にたどり着く。本丸内には江戸時代の遺構がそのまま残っている。まずは現存天守、そして本丸御殿、廊下門、西・東多聞櫓、黒鉄門、納戸蔵など、狭い本丸内に所狭しと密集している。(これだけ密集して建てていると、火災の被害も多かっただろうなと感じる。。。)

(下写真:二の丸から見た天守と詰門・廊下門)

本丸御殿は川越城など、全国でも現存例が少ない貴重なものである。ただ、規模としては小さく、正面の式台、正殿、納戸蔵の3棟だけである。高知城の本丸御殿は特別な儀礼の時のみに使用していた場であったらしい。

(下写真:天守と本丸御殿)

天守は四重六階、最上階に高欄をめぐらせたやや古風な望楼式の天守である。最上層の屋根には銅製の鯱が載せられており、また千鳥破風、唐破風をめぐらせた意匠が天守の外観を引き立てており、とても美しい。外観でいうと山内一豊が築いた城であるからか、掛川城の天守と酷似している。


4. 城のポイント

①土佐一国20万石を支配した山内氏の居城 

②現存する天守、本丸御殿、本丸内の施設 ⇒本丸内の建物はほぼ現存している

③高知城の表門である追手門

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