1. 城のデータ
[所在地] 佐賀県佐賀市城内
[築城年] 1596~1615年
[築城者] 鍋島直茂・勝茂
[遺 構] 鯱ノ門、天守台、石垣、堀など
[別 称] 亀甲城、栄城
[形 状] 平城
[登城年] 2006年3月20日、2017年12月2日
(※トップ写真:佐賀城・鯱の門)
2. 城の歴史
戦国時代に北九州の大名であった龍造寺隆信は村中城(佐嘉城)を本拠としていた。1584年、隆信は「沖田畷の合戦」で敗死、家臣の鍋島直茂が龍造寺家臣団を統率するようになる。後に直茂は龍造寺主家の実権を握り、1607年に佐賀城の前身である村中城に入った。
直茂は城の改修を逐次実施、1608年からは鍋島主水が総奉行を務め内堀・外堀が完成、勝茂の代である1611年には天守、本丸御殿も完成した。1726年に火災により天守、本丸御殿が焼失したが、10代直正の代に本丸御殿が再建された。
3. 城の見どころ
佐賀城は有明海によって形成された水郷地帯(クリーク)の地形を利用して築かれた平城であり、広大な方形の曲輪を囲む外堀は幅が50mもある巨大な城である。佐賀市内の地図を見ると、現在でも夥しい数の水路が存在しており、それらが城の防備の役割を果たしていたものと思われる。
(下写真:南堀)
城の中心である本丸には平成16年に本丸御殿が復元されている。佐賀城の御殿建築は江戸時代に何度も焼失しているが、天保期の御殿をもとに今回御玄関、御式台、外御書院、御三家座、御小書院、御座間、御料理間が再現された。藩政の中心であった外御書院の大広間は320畳もあり、鍋島藩36万石の格式を思わせるとても豪華なものであった。最近の御殿建築の復元例は全国の城郭で進んでおり、城のシンボルとは決して天守だけではないなと感じる。
(下写真:本丸御殿御玄関・御式台)
(下写真:御座間・御小書院・外御書院)
(下写真:御座間)
現存する建築としては、二の丸から本丸への入口に当たる鯱の門が残る。門の両端に青銅の鯱が置かれた巨大な櫓門である。その規模は全国でも屈指の規模である。ちなみに門をよくよく見てみると、1871年の「佐賀の乱」(士族の特権廃止政策に抵抗して起きた不平士族の反乱)の時に受けた弾痕がいたる所に残っている。今に残る弾痕を見ると時代を超えて当時の戦乱の激しさを思わせてくれる。
また、本丸の北西にはこれまた巨大な天守台(15間×13間)が存在する。かつては五重天守が聳えていたと言われるが、詳しい資料が存在しないため、外観意匠等、その詳細が不明なのが何とも残念である。
(下写真:天守台石垣)
4. 城のポイント
①水郷を利用した鍋島藩36万石の巨城 ⇒水郷地帯に築かれた城郭
②現存する鯱ノ門 ⇒二の丸から本丸へ入る最後の防衛線
③復元された本丸御殿 ⇒外様の大藩に相応しい堂々たる規模の御殿
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