1. 城のデータ
[所在地] 秋田県秋田市千秋公園
[築城年] 1603年
[築城者] 佐竹義宣
[遺 構] 御物頭御番所、土塁、石積
[別 称] 矢留城、秋田城
[形 状] 平山城
[登城年] 2013年5月5日、2017年7月8日
(※トップ写真:久保田城・御隅櫓)
2. 城の歴史
常陸の戦国大名・佐竹義宣は、関ヶ原の戦いにおいて西軍側についたため、1602年出羽国仙北・秋田六郡に国替えとなった。その翌年、新たな居城として秋田の地に久保田城を築くことになった。渋江内膳政光、梶原美濃守政景を普請奉行とし、1604年には義宣は早くも久保田城に入っている。
その後も城の普請自体は続けられ、1630年代に至っても三の丸の普請は続けられており、義宣の入城後20年以上を経てようやく完成に至ったようである。その後、久保田城は歴代佐竹氏20万石の居城として明治維新まで続くことになる。
3. 城の見どころ
久保田城は、秋田市街の中心、標高45mの独立丘・新明山を利用して築かれた平山城である。その構造は本丸、二の丸を二段構えに配して、それらを囲い込むように水堀を巡らせている。さらにその外側にも三の丸、西曲輪、北の丸などが設けられ、その外周にも水堀が巡らされていた、いわゆる輪郭式の縄張りだ。
久保田城の特徴は何といっても石垣をほとんど使わず、土造りで築かれている所だろう。それは外様大名である佐竹氏が幕府に遠慮した結果と言われるが、そもそも佐竹氏家中に石垣積みの有能な技術者がいなかったためであるようだ。確かに佐竹氏が久保田城の前に居城としていた常陸国の水戸城についても同様な土造りの城であったことを思い出した。
秋田駅から西に少し歩いていくと、幅広い水堀が見えてくる。これは外堀のうち南側の堀で、非常に広大である。城内に入っていくと、本丸・二の丸を囲む内堀を超え、坂道を登っていくことになる。久保田城は全く石垣を使わないが、切岸(自然の崖を切り土塁状にしたもの)の高さは実に見事である。
久保田城内屈指のポイントは長坂の虎口から本丸表門にかけての辺りである。長坂は二の丸から本丸へ上がる坂道であり、表門へ至る前は鍵状に折れ曲がった形状にしており、最終の防衛拠点であったと思われる。長坂の土塁の基底部には小規模な切石で補強されており、珍しい遺構である。
(下写真:長坂)
長坂を登りきる手前に御物頭御番所がある。久保田城内で唯一の城郭建造物であり、番所の遺構は事例が少なく珍しいものである。
(下写真:御物頭御番所)
番所から石段を上がった所に本丸の正門である表門(一ノ門)が建っている。平成12年に復元されたもので、外部に長押を見せるなど、規模こそ違うが意匠的には弘前城の城門と類似している櫓門である。
(下写真:表門)
そして、必ず見ておきたいのは本丸の南西隅に出し書院と呼ばれる二階造りの書院風建物があった櫓台の切岸である。上から見下ろすとその高低差に足が震えるほどで、その勾配は決して石垣に劣らないものだ。
(下写真:出し書院櫓台跡切岸)
あと本丸北西隅、二重の御隅櫓があった所に現在三重四階の模擬櫓(平成元年築造)が建てられているが、これは上下階のバランスが悪くイマイチな代物だ。
4. 城のポイント
①佐竹氏得意の土塁技術で築かれた城
②現存する御物頭御番所、本丸表門(一ノ門) ⇒表門は平成12年に復元されたもの
③独立丘の地形を巧みに活かした切岸 ⇒出し書院櫓台付近の切岸が見どころ
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