1. 城のデータ
[所在地] 千葉県君津市久留里
[築城年] 1537年、1591年
[築城者] 里見義堯、大須賀忠政、黒田直純
[遺 構] 天守台土台、本丸、二の丸、曲輪、土塁、空堀、堀切、井戸など
[別 称] 雨城
[形 状] 山城
[登城年] 2011年7月18日
(※トップ写真:久留里城・模擬天守)
2. 城の歴史
久留里城は1537年、安房の戦国大名・里見義堯が上総武田氏が築いた従来の砦を改修し、本拠地にしたと伝わる。里見氏在城中、小田原の北条氏の攻撃を二度にわたり撃退したといわれる実績を持つ堅城であったといわれる。
1590年、里見氏が上総を没収された後、徳川配下の大須賀忠政、次いで土屋忠直、酒井忠清が支配する。一時廃城となっていたが、1742年、黒田直純が3万石で入り、幕府の許可を得て、城の再構築を実施。山上本丸に二重櫓、二の丸に多聞櫓などを建造するなど、近世久留里城の礎を築いた。
3. 城の見どころ
久留里の地は木更津市内から南東におよそ20kmの地に位置する山あいの街である。周囲は現在では田園地帯が広がるとてものどかな地となっているが、戦国時代後期には房総の覇者・里見氏と、小田原の戦国大名・北条氏との数度にわたる抗争の舞台となった歴史ある地でもあった。
久留里城は町を流れる小櫃川の東側に位置する、標高145mの小高い山上にある。里見義堯がこの城の完成させた後、3日に一度21回、雨が降ったという伝説から「雨城(うじょう)」の別名がある。城の構成は平地部分と山上部分からなる。平地部は三の丸、三の丸後曲輪、外曲輪が設けられ、三の丸には藩主居館があった。現在はほぼ田畑か宅地となっている。
一方、山上の要塞部は尾根に沿って曲輪をいくつも連ね、要所には堀切を設けられている。薬師曲輪、獅子曲輪、二の丸、久留里曲輪、天神曲輪、波多野曲輪、弥陀曲輪などがあり、最高所に本丸が置かれていた。山城の通路は狭く、一度に侵入できないように様々な工夫がなされてあった。
(下写真:久留里曲輪)
(下写真:天神曲輪)
二の丸跡には、兵糧庫焼失事件で失火の嫌疑をかけられ斬首された家臣と、彼を慕うお玉という娘の悲しい物語が伝わるお玉が池、そして、本丸の下には男井戸、女井戸が残されている。
(下写真:男井戸、女井戸)
山上の本丸には、かつて黒田直純が創建した二重の天守台の土台が残されている。石垣ではなく、土壇となっており、礎石群の遺構が確認されている。その横には二重三階の復興天守が建てられている。実際に江戸時代に存在した二重天守とかなり異なるようだが、今では君津市のシンボルとなっている。
(下写真:天守台)
4. 城のポイント
①里見義堯が房総の要として築いた城
②山上に残る曲輪群、堀切、土塁など
③お玉が池、男井戸、女井戸 ⇒険阻な山でありながら、飲料水に不自由しなかった
0コメント