1. 城のデータ
[所在地] 千葉県佐倉市城内町
[築城年] 1532~1555年ごろ、1611年
[築城者] 千葉氏、土井利勝
[遺 構] 堀、土塁、天守台、角馬出、溜池
[別 称] 鹿嶋山城
[形 状] 平山城
[登城年] 2010年8月25日
(※トップ写真:佐倉城・角馬出の空堀)
2. 城の歴史
佐倉城は、本佐倉城の千葉親胤が天文年間(1532~1552年)に一族の鹿島幹胤に命じて鹿島台に築いたのが始まりとされる。その後、衰退した千葉氏は関東の雄・北条氏の傘下に入るも、1590年の豊臣秀吉による関東攻めにより、城は落城。
1592年に家康の五男・松平信吉が5万石で入封、1602年には六男の松平忠輝が入る。以後、譜代大名が城主となり、1610年には土井利勝が佐倉城主となり、大改修を施した。この時に、江戸城の東の守りに相応しい城郭となる。その後、目まぐるしく城主は入れ替わり、1746年に堀田氏が入り、明治を迎える。
3. 城の見どころ
佐倉城は、印旛沼に注ぎ込む鹿島川河口近くの小高い台地上に立地する。台地は一番高い所で30mほどだが、北・西・南の三方を印旛沼、鹿島川、高崎川によって守られた天然の要害である。佐倉の地は、江戸を守る要衝であり、西国から江戸が攻撃された時に将軍家が退避する地と定められていたこともあり、佐倉城は代々、譜代大名が城主となっている。
(下写真:椎木曲輪の水堀)
佐倉城は土井利勝が度重なる加増(17万2000石)に伴って、近世的な大城郭に作り変えられたが、やはり関東地方の城らしく、土塁造りであり、石垣は一切使われていない。ただし要所には土塁を屈曲させ、横矢掛りがかかるようにつくられ、戦時を想定したつくりとなっている。二の門跡は折れ曲がった塁線となっていることがよくわかる。
(下写真:二の門)
三の丸の外側には復元された角馬出があり、その長さは長辺120mもあり、実に圧巻である。現在の深さは3m程だが、江戸時代には5.6mもあったという。
本丸には天守台、銅櫓、一の門跡が残っているが、現在は建物の遺構は残っていないのが実に残念である。かつては三重五階の天守が建っていた。当時は武器庫として使われていたという。そして、銅櫓は、江戸城から移築してきた建物(太田道灌がつくらせたといわれる)で、銅瓦葺であったといわれる。
(下写真:天守跡)
本丸から南西側に降りると、出丸跡がある。鹿島川に面する水堀と土塁が良好に残っている。馬出は防御の要であり、なおかつ攻撃の起点ともなっていた。出丸が位置するところは、本丸の背後であり、手薄な裏手を守る拠点でありつつ、敵の背後をつくつくりでもあった。まさに攻防両面でよく考えられた城である。
(下写真:出丸跡の土塁と水堀)
4. 城のポイント
①江戸東方の押さえとした譜代の城 ⇒土井利勝を始め、歴代譜代大名が支配した城
②本丸、二の丸、三の丸に残る土塁、空堀
③三の丸手前に築かれた馬出、本丸の背後に築かれた2ヶ所の出丸跡
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