国府台城

1. 城のデータ

[所在地] 千葉県市川市国府台 

[築城年] 1478年 

[築城者] 太田道灌

[遺 構] 堀、土塁、井戸など

[別 称] 市河城、鴻之台城  

[形 状] 平山城  

[登城年] 2012年12月16日

(※トップ写真:国府台城・里見公園)


2. 城の歴史

1478年に扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が千葉自胤を助け、千葉孝胤と戦うために下総・国府台に陣取り、陣城をかまえたのが国府台城のはじまりとされる(境根原の戦い)。

1538年、北条氏綱と小弓公方・足利義明・里見義堯らが戦い、足利義明が敗死する第1回国府台合戦が繰り広げられる。そして、1564年の第2回国府台合戦では、北条氏康と里見義堯・義弘が戦い、北条軍の圧勝に終わり、戦後北条氏の手により城の規模の強化がなされた。しかし、北条氏滅亡後、徳川家康の関東入封時に江戸俯瞰の地であることから廃城となった。


3. 城の見どころ

国府台城は江戸川(当時は太日川と呼ばれていた)と坂川の合流地点に隣接する標高20m~30mほどの河岸段丘上にあり、南北に細長い連郭式の平山城であった。江戸川をのぞむ国府台は武蔵国と下総国の国境上にあり、近くには川の渡しもあり、築城当時から交通の要衝であったものと思われる。

江戸川の対岸から国府台城をみてみると、広く平坦な地形の多い関東平野には珍しく、河川に沿って細長い高台の上に建っていることがよくわかる。広い川幅の江戸川を天然の外堀と見立てたまさに要害堅固の城であったことだろう。

(下写真:江戸川対岸から城跡を見る)

現在の国府台城は「里見公園」となっていて、市民の憩いの地になっている。城跡は高台にあるため、ふもとの江戸川、東京方面の市街地、さらには現在では、東京スカイツリーをも遠望できる実に良い立地条件だ。城があった当時も、武蔵(東京)方面からの侵攻に備えるにはこれ以上ない場所だと改めて思う。

里見公園内に残る城の遺構は見た感じ、後世の改変がかなりされているものと思われるが、当時の堀跡や土塁などがよく残っている。

(下写真:里見公園内に残る土塁)

国府台城周辺には古代から集落があり、古墳も多かったという。里見公園内には明戸古墳と呼ばれる前方後円墳があり箱型石棺が出土したままの状態で今も保存されている。城内の土塁を作る時に、古墳跡を土塁代わりに利用されたという。

(下写真:明戸古墳石棺)

第2回国府台合戦の際に敗北した里見軍は、里見広次、正木内膳らはじめ、数多くの戦死者を出した。戦後、広次の死を痛んだ姫が石にもたれて泣くうちに死んでしまったという伝説があり、その石が「夜泣き石」と言われる。その後、かなりの年月が経ってからだが、里見軍の戦死者を供養するために江戸時代の1829年になって供養碑が建てられたそうだ。

(下写真:里見広次と諸将の墓碑)

現在の里見公園の外部には、当時の国府台城の城内にあったと思われる天満宮と総寧寺がある。天満宮は大田道灌が建立したといわれている。それに対して総寧寺は、もともと関宿にあった曹洞宗の寺院であったのだが、しばしば水害にあっていたので、1663年に国府台に移ってきたものだという。

(下写真:天満宮社殿)


4. 城のポイント

①武蔵国・下総国の国境上に位置し、江戸川をのぞむ要衝の城

②二度の国府台合戦の舞台になった城 ⇒北条氏・里見氏の抗争の地 

③里見公園内に当時の土塁、堀跡が残る

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