1. 城のデータ
[所在地] 埼玉県大里郡寄居町鉢形
[築城年] 1476年
[築城者] 長尾景春
[遺 構] 曲輪、土塁、堀
[別 称] なし
[形 状] 平山城
[登城年] 2012年7月16日
(※トップ写真:鉢形城・復元四脚門)
2. 城の歴史
鉢形城は、1476年関東管領・山内上杉氏の家臣の長尾景春が築城したと伝わる。1558年この地域の豪族・藤田康邦に入婿した北条氏康の四男・氏邦が整備拡充し、城郭としての体裁が整えられる。1569年に武田信玄が鉢形城付近へ侵入するも、守りが堅いとみてそのまま小田原方面に南下した。
1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの際、北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国勢に包囲され攻城戦が展開される。そして1ヶ月あまりの籠城戦の末、北条氏邦は城兵の助命を条件に開城し、鉢形城は廃城となっている。
3. 城の見どころ
鉢形城は武蔵国(埼玉県)の北西部に位置し、北条氏の上野国(群馬県)への進出の拠点、また、信濃国(長野県)からの武田氏の侵攻を防ぐ拠点ともなった重要な地にあった。血族を各地の拠点に送り込み、関東地方一円を支配した北条氏の四男・北条氏邦が本拠とした城郭であっただけに、その城郭の規模、堅固さは戦国関東の城郭の中でも屈指であった。
まず、城の立地であるが、荒川とその支流である深沢川に挟まれた高台に築かれており、まさに天然の要害の地にある。特に城の東側を流れる荒川は川幅が広く、その名の通り水流が豊富で凄まじい勢いで流れる。城の東側は荒川が削った断崖になるため、東方面からの攻撃は実質不可能であろう。深沢川も西方向から蛇行しながら急峻な地形をつくりだしている。深沢川の西側が城の中枢部、東側が外曲輪となっている。
(下写真:荒川対岸から城山を見る)
縄張は荒川を背後にのぞむ高台に本丸、御殿曲輪を、その西側に二の丸、三の丸等の曲輪を順次配置していくという、典型的な連郭式の構成である。縄張は実に複雑で、複数の曲輪を有機的に組み合わせており、重要な虎口の外側には角馬出を配置し防備を固めている。また、土塁の塁線は至るところで屈曲させており、横矢を狙っているのがよくわかる。
(下写真:馬出空堀)
近年の発掘調査等により、鉢形城の整備が進められている。特に二の丸、三の丸周辺はよく整備・保存がされている。空堀や柵列なども再現されている。
(下写真:二の丸と三の丸間の堀)
三の丸の入口部には四脚門が復元されている。戦国期の城門をイメージした門である。四脚門の外側の曲輪や三の丸付近には石積土塁が復元されている。これは後世の本格的な石垣とは異なり、土塁を補強する目的だったと思われるが、戦国時代の関東でもこのような石造りの遺構があるとはなかなか興味深い。
(下写真:復元石積土塁)
城の中心である本曲輪(本丸)付近は、雑木林となっており、ちょっと城の遺構がわかりづらいと感じた。一角に「鉢形城本丸跡」の石碑がたっている。本曲輪(本丸)の北側を流れる荒川を眺めると、北方面からの守備は全く考えなくていいなと感じた。
(下写真:本丸跡)
外曲輪の一角には歴史館が建っている。近年できた施設のようで、鉢形城の歴史、縄張、時代背景などがよくわかるので、城の遺構を訪れる前に見学しておくのが良いかと思う。
4. 城のポイント
①北条氏邦が整備拡充した広大な戦国の城
②現在も残る各曲輪、堀、土塁
③近年復元された三の曲輪の四脚門、石積土塁など
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