1. 城のデータ
[所在地] 群馬県沼田市西倉内町
[築城年] 1532年ごろ、1583~1615年
[築城者] 沼田顕泰、真田信之
[遺 構] 本丸、二の丸、櫓台、石垣、土塁
[別 称] 倉内城
[形 状] 平山城
[登城日] 2012年6月23日
(※トップ写真:沼田城・本丸西櫓台の石垣)
2. 城の歴史
天文年間に沼田顕泰が後に「古城」と呼ばれる位置に築城したのが沼田城の始まりである。沼田氏は武田氏配下であった真田昌幸に滅ぼされ、昌幸はこの沼田城の整備を進めた。昌幸は嫡男の信之に沼田城を与え、自らは上田城に移った。関ヶ原の戦いでは信之は東軍につき、戦功を挙げた。
10万石級の四重天守を持つ沼田藩であったが、5代・真田信利は1681年、江戸両国橋の材木調達で納期に遅れ、役目怠慢により改易となってしまう。その後しばらくは幕府領となった後、本多氏、黒田氏、土井氏が入城し、明治維新を迎えた。
3. 城の見どころ
沼田城は現在の群馬県の北より、新潟への要所にある盆地中央の高台に築かれていた。地図を眺めていると、関東から越後国(新潟県)に抜ける手前に位置しており、戦国時代当時、越後の上杉氏、関東の北条氏、甲斐の武田氏の争奪の舞台となった地であることが改めて分かる。何度も関東遠征を行った上杉謙信が関東進出の足掛かりとした城がこの沼田城である。
沼田駅から徒歩で約20分ほどだが、高台にあるため意外と遠く感じる。沼田城は西側は山城、東側は平城として造っており、本丸から南東にかけて曲輪を拡げ、真田氏築城当初は四重の堀に囲まれた近世城郭であった。信之が築城した当時は本丸に四重天守と三重櫓がそびえていたという。関東地域で四重、あるいは五重天守があったのは幕府の居城であった江戸城と、この沼田城のみであったことを考えると、いかに当時真田氏が徳川氏より大きな信頼があったということが分かるだろう。
現在沼田城は公園として整備されており、いくつかの遺構が残されている。沼田公園入口付近には三の丸の土塁、堀跡が見られる。現在テニスコートや野球場となっている場所は、当時二の丸であり、野球場の一角に土塁が残されている。
(下写真:二の丸土塁)
本丸には堀の一部が残っているほか、本丸西側には西櫓台石垣と、石段が近年の発掘調査により発見され、保存されている。この石垣は高さ1m程だが、巨石が用いられておりなかなか見ごたえがある。ここにかつては二重櫓が建っていたそうだ。
(下写真:本丸堀跡)
(下写真:本丸西櫓台の石垣)
また、本丸の一角に鐘楼が建っているが、これは明治20年に旧役場に建てられた鐘楼を昭和58年に復元されたものだ。
(下写真:鐘楼)
4. 城のポイント
①四重天守と三重櫓があった北関東屈指の城
②現在も残る二の丸土塁、本丸西櫓台の石垣・石段、堀跡
③復元された鐘楼 ⇒昭和58年に復元されたもの
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