1. 城のデータ
[所在地] 埼玉県加須市根古谷
[築城年] 不明
[築城者] 不明
[遺 構] 土塁
[別 称] 私市城、根古谷城
[形 状] 平城
[登城年] 2010年7月19日
(※トップ写真:騎西城・模擬天守)
2. 城の歴史
騎西城はいつ誰の手で築城されたのかについては不明である。1455年に上杉・長尾氏らが守る騎西城を古河公方・足利成氏が攻撃したというのが文献で見られる初見である。1563年には小田助三郎が守る騎西城を上杉輝虎(謙信)が攻め落としている。戦国末期には北条方の成田氏の居城となっている。
1590年、徳川家康が関東に入国した後は松平重康が2万石で城主となり、騎西藩を起こしている。その後大久保忠常・忠職父子が城主となり、城下町の整備・再編等を行ったが、忠職の美濃加納城への転封に伴い1632年、騎西城は廃城となる。
3. 城の見どころ
騎西城は東武伊勢崎線の加須駅から3km程離れた周囲が田園地帯の近辺にある。近くまで来ると、三重の天守風の建物が建っているが、これは町制20周年を記念して昭和50年に建てられた歴史資料館で、当時の建物は平屋のものであったという。いわば歴史上根拠の無い模擬天守というものだ。
(下写真:模擬天守と沼)
この模擬天守のそばを走る道路の反対側に、土塁が一部現存している。ここはかつて天神曲輪と呼ばれていた所だ。かなり磨り減ってしまい現在の高さは3m程となってしまったが、かつての遺構を偲ばせる唯一のものだ。
(下写真:天神曲輪の土塁)
さらに、この土塁の南側には幅50mにも及ぶ障子堀がめぐらされていた。障子堀といえば、小田原城、山中城などで見られる北条氏特有の堀だ。北条氏の影響が及んでいた時期に改修がされていたということがわかる。騎西城の遺構としては土塁しか残っていないが、近辺を歩いてみると、大手門跡や的場跡を示す碑(説明付き)のみが立っていた。
(下写真:大手門跡)
騎西城の構造は東に大手門を配し、二つの曲輪、天神曲輪、馬屋曲輪、二の丸と鉤の手状に構成されていて、本城(本丸)に容易に攻めこまれないような構造となっていた。しかも、当時城の周辺は沼や深田に囲まれた要害の地にあり、城下には堀を縦横無尽にめぐらせたなかなか工夫に富んだ城であった。
現在は城跡のほとんどが平地化(宅地・田畑等)されてしまっているが、模擬天守の西側にはおそらく築城当時、沼であった池が一部残っている。1563年に騎西城を攻撃した戦の天才といわれる上杉謙信も、「騎西城は四方の沼が浅深限りなく、一段と然るべき地で、調儀叶い難し・・・」と言っている。それほど、攻めるに難しい城だったということがわかる。
(下写真:沼であった池)
4. 城のポイント
①上杉謙信も舌を巻いた城 ⇒周辺の沼地を利用してつくられた戦国期の城
②天神曲輪跡に現存する土塁
③模擬天守近くに残る沼跡の池
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