館林城

1. 城のデータ

[所在地] 群馬県館林市高松町  

[築城年] 1556年  

[築城者] 赤井氏、榊原康政、徳川綱吉

[遺 構] 曲輪、土塁

[別 称] 尾曳城  

[形 状] 平城  

[登城年] 2010年7月19日

(※トップ写真:館林城・三の丸復元土橋門)


2. 城の歴史

館林城は諸説あるが、1556年に豪族・赤井照康が大袋城に代わり館林に城を築いたことに始まるという。戦国時代末期は越後の上杉謙信と北条氏との間で争奪戦が繰り広げられる。1590年の豊臣秀吉による小田原平定時には館林城は開城している。

北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入国し上野、下野、武蔵の国境上に位置する館林城を重要視し、10万石で榊原康政を城主に据えた。1661年には後に5代将軍となる徳川綱吉が25万石で入封する。その後は、太田氏、松平氏、井上氏、秋元氏といった大名が代替わりしつつ、幕末まで存続した。


3. 城の見どころ

館林も他の城と同様に明治以降の市街地化が進み、城の遺構と呼べるものは少なく、かつて関東でも指折りの城下町の中心であった城郭という雰囲気を感じるのは難しいかもしれない。かつて戦国時代には上杉、武田、北条の間で争奪戦が繰り広げられた城で、三方を城沼に囲まれた天然の要害であった。

現在の館林駅からは少し東側に行ったところにかつての館林城があった。現在は三の丸の一角に1983年に復元された土橋門がある。門前に内堀にかかる土橋が設けられていたため、この名がついたという。この周辺には井戸と復元された土塀もあり、ここが城跡を感じさせる唯一といってよい場所である。

(下写真:井戸)

現在の館林市役所のあたりが館林城の本丸があったところで、綱吉が城主であった時代は、三層の櫓(御三階櫓)がたっていたという。綱吉の跡を継いだ子・徳松の死とともに館林藩は一時廃藩となったため、その時に破壊されてしまったらしい。また、市役所と隣接する向井千秋記念科学館の裏手には一段高い土盛りが見られるが、これが本丸の土塁跡である。

(下写真:本丸土塁)

館林駅から城跡までの間の道には古い建物が多く残っており、かつての城下町の様子を少し伺うことができるだろう。現在、鷹匠町には館林市が管理する復元侍屋敷「武鷹館」として整備されている。もとは館林城の総曲輪内に江戸時代末期に築かれた中級藩士宅といわれる。母屋、長屋門ともに武家の屋敷として相応しい武骨な構えである。

(下写真:武鷹館)

また、「武鷹館」の近くには、豪農「松澤家」が利用していた長屋門を利用して、平成21年に新築した門も整備されているので見ておくとよいだろう。

(下写真:鷹匠町長屋門)


4. 城のポイント

①徳川家康も重要視した北関東要の城 ⇒武蔵、上野、下野を押さえる要衝の城

②三の丸跡に残る土橋門、本丸跡に残る土塁

③鷹匠町に整備されている復元侍屋敷「武鷹館」


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