忍城

1. 城のデータ

[所在地] 埼玉県行田市本丸  

[築城年] 1469年~、1639年  

[築城者] 成田顕泰、阿部忠秋

[遺 構] 諏訪曲輪、水堀、土塁、石垣

[別 称] 亀城  

[形 状] 平城   

[登城年] 2010年3月10日

(※トップ写真:忍城・復興御三階櫓)


2. 城の歴史

忍城の築城は15世紀後半、成田氏によって築かれたとされる。戦国時代は北条氏の一支城となり、敵対する上杉謙信としばしば戦闘を繰り返している。豊臣秀吉の関東征伐の折に石田三成らが忍城を水攻めしたがついには落城しなかった。

徳川家康の関東入封以降は松平家忠、松平忠吉、松平信綱らが城主となっている。1639年には阿部忠秋が忍城に入り、阿部氏時代に三階櫓、二階櫓を始めとする城郭が城下町とともに整備されて、近世城郭としての礎が築かれた。1823年に桑名より松平忠堯が入り、5代続き、明治維新を迎えている。


3. 城の見どころ

忍城は周囲が沼地に囲まれた、というより沼地の中に築かれた城であり、天然の要害の地を利用して築かれている。土塁と水堀により複雑に区画された堅固な平城であり、その地形から、「忍の浮城」と呼ばれ関東七名城の一つに数えられている。

現在、城跡周辺はかなり市街地化が進んでいるが、かつての沼は広大な水城公園として残っている。水城公園は城の南東部にあった外堀一部を利用したものである。忍城跡は現在行田市の郷土資料館の敷地となっており、周辺はよく整備されている。

(下写真:水城公園)

本丸跡地には模擬的な復興三階櫓が建てられている。かつては本丸ではなく、勘定所曲輪に建っていた実質的な天守であったとされる。明治6年作成の「忍城鳥瞰図」の描写を元につくられた三重の白亜建築である。訪れた日は前日に降り積もった雪景色と相まって、白銀に輝く、素晴らしい風情であった。

(下写真:復興御三階櫓)

土塁は明治以降次第に削られてしまい、ほとんど滅失してしまったが、三階櫓の近くに本丸の土塁の一部が残されている。土塁は結構高く積まれており、本丸を防備する最後の施設であったと思われる。

(下写真:本丸土塁)

また、本丸には1717年に忍城に入った松平忠堯が桑名から鐘を持ちこんだという鐘楼が建っている。江戸時代は二の丸東側にあったが、現在は本丸に移設されている。当時用いられた鐘は復興三階櫓に展示されている。

本丸跡の一角には、かつて藩校・進修館のものであったといわれる門が残っている。城下の旧芳川家の表門として移築されていたもので、忍城唯一の建造物遺構であり貴重である。

(下写真:伝藩校・進修館の門)


4. 城のポイント

①湖沼を巧みに活かした難攻不落の浮城 ⇒周辺の沼地を城の縄張に取り入れた天然の要害

②本丸南西部分にわずかに残る土塁 ⇒本丸を守る最後の防御ライン

③復興された三階櫓と藩校・進修館のものといわれる門

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