1. 城のデータ
[所在地] 青森県弘前市下白銀町
[築城年] 1611年
[築城者] 津軽為信
[遺 構] 本丸、二の丸、三の丸、北の曲輪、西の曲輪、水堀、土塁、石垣、天守、辰巳櫓、未申櫓、丑寅櫓、北門、東門、東内門、南内門、追手門(南門)
[別 称] 鷹岡城、高岡城
[形 状] 平山城
[登城年] 2010年5月3日
(※トップ写真:弘前城・天守)
2. 城の歴史
南部氏の一武将であった津軽為信は、実力行使で主家から独立し、津軽地方を制圧した。津軽地方を制する拠点としてこの弘前城が築城された。3年の月日を経て二代目信牧の時代にようやく完成する。以来、明治の廃藩に至るまで十二代にわたり津軽氏の居城となった。禄高4万7000石の小藩ながら30万石並の大城が築けたのは異例中の異例といえる。
弘前城は、明治になり東北地方の諸藩が奥羽列藩同盟に加担し、城の多くが破却の運命をたどることになったのに対し、弘前藩は勤王派であったため、天守などの取り壊しを免れる事ができた。
3. 城の見どころ
弘前城は西に岩木川、東に土淵川が流れる標高45mの台地上に築かれた城である。三重の水堀をめぐらせ、本丸、二の丸、三の丸、北の曲輪、西の曲輪など、数多くの曲輪を設けた巨大な城である。5万石前後の大名がここまで大きな城を造れたのも、幕府の意向が働いていたという。つまり、東には南部氏、南には最上氏、佐竹氏といった外様大名が、また海峡を挟み未知の蝦夷地・松前氏らがあった。徳川家と親戚関係にあった津軽氏はそのような背景から巨大で堅固な城を築かせたのだ。
弘前城にはかつて五層の天守が存在したが、1627年に落雷により焼失している。その後、1810年に幕府の許可を経て本丸辰巳櫓を改修して、天守代用の三階櫓とした。幕府に対しては「御三階櫓」として届けていたという。この天守(三重櫓)は、屋根は銅板葺きであり、外面は南と東は建物を大きく見せるため、小さな窓を連続して設け、二・三層目に切妻破風をつけている。対して西・北の内側の窓は大きな連格子窓で銅板扉が取り付く意匠となっている。このように面によって意匠を変えているため、天守は方角により外観意匠が異なっており大変面白い。
(下写真:本丸から見た天守)
弘前城の現存する遺構として、天守のみならず、二の丸には辰巳櫓、丑寅櫓、未申櫓の三基の三重櫓と、南内門、東内門が残る。そして三の丸には追手門と東門、北の丸には北門(亀甲門)が残存する。(天守と3つの三重櫓、5つの城門はいずれも国の重要文化財に指定されている。)とくに3つの三重櫓が残るのは日本全国の城郭の中でもこの弘前城のみであり、これだけ城の遺産が残っているのは本当に素晴らしい。城郭の遺産の保存度から言うと、あの姫路城にも充分匹敵する。
(下写真:二の丸東内門)
(下写真:三の丸東門)
5つの城門はいずれも桝形状に折れ曲った虎口の内側に建つ。城門付近も土塁であるが、巨大な城門と組み合わせた防御ラインはとても堅固だ。5つの城門ともに庇付の連格子窓で格調高く統一されている。三の丸の追手門が城の正面に位置し、大手門と呼ばれるようになっている。また、北門のみは初代・為信時代の大光寺城からの移築といわれており、戦国時代の矢傷跡が柱に数ヶ所残っているのが確認できる。
(下写真:北の丸北門)
三基の三重櫓は屋根に木端葺きで(現在は銅板で覆う)、二層目に入母屋をもち、三階目には棹縁天井が吊られ、畳付がある古風なつくりであり、独特の美しさを持っている。防弾・防火のために土蔵造りとなっている。櫓の名前は十二支で方角を表しており辰巳櫓は南東を、丑寅櫓は北東を、未申櫓は南西方向を指している。すべて土塁上に建っており、関東・東北地方に特徴的な構成である。ただ、櫓の中に入れないのが残念だった。
(下写真:辰巳櫓)
(下写真:丑寅櫓)
(下写真:未申櫓)
弘前城を訪れた時期は5月の連休だったので、とても多くの人で賑わっていた。弘前城は数多くの桜が植えられており、特に有名な枝垂桜をみるためにこの時期毎年200万人近くの人が来ているらしい。城の至るところに桜が満開で、土塁や水堀も桜で埋まっている様子はさながら桃源郷のように感じるほど美しい光景だった。ただし、天守付近も桜の木々がたくさんあって写真をとるのに邪魔になるくらいであった。多くの人が天守の前で並んで行列を作っていたので今回は天守の中に入る事を残念した。今度訪れる時はじっくりと天守の中も見たいと思った。
4. 城のポイント
①関東以北で唯一天守が残る城 ⇒全国に現存する十二天守のうちの一つ
②天守以下、三重櫓三基、城門五基が現存する ⇒それぞれ意匠の類似性と独自性に注目
③本丸、二の丸、三の丸以下、壮大な城域が現存、また、桜の名所としても有名
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