1. 城のデータ
[所在地] 群馬県高崎市高松町
[築城年] 1598年
[築城者] 井伊直政
[遺 構] 乾櫓、東門、土塁、水堀
[別 称] 和田城
[形 状] 平城
[登城年] 2010年3月10日
(※トップ写真:高崎城・本丸乾櫓と三の丸東門)
2. 城の歴史
高崎城は15世紀初頭、和田氏によって築かれた中世城郭であった。1590年の豊臣秀吉による小田原平定時に和田城は落城。その後、関東に入った徳川家康が徳川四天王の一人・井伊直政に和田城跡に新城を築くことを命じた。直政が近江彦根に転封した後は酒井氏、松平氏と次々と城主が入れ替わっている。
1619年に入城した安藤氏により高崎城の築城工事がやっと完成した。近世城郭らしい姿となったのはこの時期であったという。その後、6代将軍・家宣の側近である間部詮房が城主の時代もあったが、以後は松平(大河内)氏の居城として明治を迎えている。
3. 城の見どころ
高崎城は西側に烏川を背後にのぞみ、本丸を中心に、二の丸、梅の木曲輪、西の丸、瓦小屋、西曲輪群、榎曲輪、三の丸という曲輪群が取り囲む、輪郭式と梯郭式を組み合わせてつくられたような城であった。複雑に入り組んだ虎口の配置とあいまって、外敵の侵入を容易に許さない構造となっていた。
当時は三重の水堀と土塁に囲まれていたが、現在は本丸と二の丸は消滅してしまい、城の外周部であった三の丸の土塁と水堀のみが残っている。城郭の中心部が無くなり、外周部だけが残るというのは意外と珍しい。三の丸の水堀と土塁はほぼ直線状につくられており、複雑な形状をしていた本丸や二の丸の構造と比較すると、単調ではあるがその広大な長さについては遺構としては重要なものである。水堀は道路の拡張によりやや狭まっており、幅約10mほどの広さである。三の丸の土塁は堀を掘った土砂で土居を盛る「掻き揚げ」という手法で築かれている。土塁のみで城を構成するのは関東地方の城郭の特徴だ。
(下写真:三の丸土塁と水堀)
本丸の西側には天守代用の三階櫓が存在したが、明治時代に取り壊され、残念ながら現存しない。昭和末期には復元計画があったらしいが、実現したなかったそうである。
建造物の遺構としては、現在の三の丸大手門跡付近に、本丸にあった乾櫓と三の丸の東門が移築保存されている。元の場所とは違う所にあるが、乾櫓は群馬県で唯一残る櫓であり貴重である。とても小ぶりで、桁行3間、梁間2間の現存最小の櫓という。もともと本丸の四隅にあった隅櫓の一つだ。
(下写真:本丸乾櫓)
一方の三の丸東門は部屋を備えた長屋門形式であり、城門として使われるのは非常に珍しい。一説では、二の丸にあった藩主の居宅の門であったともいわれる。
(下写真:三の丸東門・正面側)
(下写真:三の丸東門・城内側)
4. 城のポイント
①中世と近世の二つの曲輪形態を有した城 ⇒中世に築かれた曲輪の特徴を踏襲していた
②大手門跡に移築保存されている乾櫓と東門 ⇒群馬県下で唯一残る櫓
③三の丸の土塁と水堀 ⇒堀は幅が狭くなっているが、良好に残る
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