岩槻城

1. 城のデータ

[所在地] 埼玉県さいたま市岩槻区太田  

[築城年] 1457年  

[築城者] 太田道真・道灌

[遺 構] 新曲輪、鍛冶曲輪、門、土塁、空堀

[別 称] 白鶴城、浮城、竹束の城  

[形 状] 平城   

[登城年] 2009年11月9日

(※トップ写真:岩槻城・裏門)


2. 城の歴史

岩槻城は、扇谷上杉氏が家臣の太田道真・道灌父子に築城を命じたのに始まった。1569年、太田資正のころ、北条氏が武蔵国に侵入し、北条氏が岩槻城を支配することとなった。1590年、天下統一の野望に進む豊臣秀吉の侵攻にあい、抵抗むなしく岩槻城は陥落、徳川家康の家臣・高力清長が岩槻城に入った。

高力氏のあと、幕府直轄期を経て、代々譜代大名が岩槻城を治めることになる。青山氏、阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平氏、小笠原氏、永井氏の次に1756年、旗本の大岡忠光が入り、その後大岡氏8代が続き、明治維新をむかえることになる。


3. 城の見どころ

岩槻城は荒川が蛇行する平地に建てられており、築城された当時は周囲三方を広大な沼で囲まれていた。築城時に沼一面に竹束を敷き詰め、その上に土を盛ったため、「竹束の城」、また、低湿地から見ると、広い沼に浮かんでいるように見えるので、「浮城」とも呼ばれた。実際に現地に足を運ぶと現在も広大な沼と、元荒川の流れが城跡を取り囲んでいることがわかり、岩槻は当時から天然の要害の地であったことがわかる。

(下写真:城址公園の沼と八橋)

また、関東地方の城郭に典型的な特徴で、石垣は一切使われず大掛かりな土塁で城郭を形作っている。縄張は本丸を中心に、二の丸、竹沢曲輪、樹木曲輪、三の丸、武具曲輪、新正寺曲輪、茶屋曲輪、天神曲輪などといった実に複雑な曲輪で構成されていた城であった。天守は建てられず、三の丸に御殿を置いて城主の平時の政治・生活の拠点としていた。また、城下町を囲む「大構」と呼ばれる惣構の土塁が巡らされていた。

しかしながら、現在では本丸などの城の中枢は消滅してしまい、新曲輪、鍛冶曲輪という城の中核ではない部分の遺構しか残っていない。

(下写真:新曲輪跡)

それでも現存する巨大な土塁の高さ、規模を見ると、昔は相当大きな規模だったということが伺える。また、障子堀と呼ばれる北条氏特有の堀も発見されており(現在は埋め戻されている)、北条氏による城の改修がされていることが伺える。

(下写真:鍛冶曲輪土塁・堀跡)

岩槻城にかつてあった建物といわれる遺構の一つが、城の搦手にあったとされる裏門と、もう一つが元藩主居宅の長屋門であったという黒門である。これらは一時城外に移されていたが、現在岩槻城址公園内に移設され、大切に管理されている。

(下写真:黒門)


4. 城のポイント

①大構に囲われた土造りの城 ⇒元荒川と沼地に四方を囲まれた天然の要害にたつ城

②搦手にあったといわれる裏門と、藩主居宅の長屋門である黒門が現存 

③新曲輪、鍛冶曲輪に残る巨大な土塁 ⇒関東ローム層に刻まれた堅固な土塁に注目

0コメント

  • 1000 / 1000