太田金山城

1. 城のデータ

[所在地] 群馬県太田市金山町  

[築城年] 1469年  

[築城者] 岩松家純、横瀬(由良)成繁

[遺 構] 土塁、堀切、石垣、曲輪、井戸など

[別 称] なし  

[形 状] 山城  

[登城年] 2010年3月10日、2012年12月24日

(※トップ写真:太田金山城・大手虎口正面石垣)


2. 城の歴史

金山城は、新田一族の岩松家純が家臣である横瀬国繁に命じて築かせたものだ。横瀬氏はその後主家の実権を握り、由良氏と称するようになる。由良氏は戦国時代、周りに北条氏、武田氏、上杉氏、佐竹氏に囲まれながらも奮戦するが、1584年、北条氏によって城を奪われてしまい、金山城には北条氏城代の清水太郎左衛門が入ることになる。

豊臣秀吉の北条征伐時に金山城は無血開城となり廃城となる。一方、由良氏は常陸・牛久に5000石の知行を得る。現在は城の復元整備工事が段階的になされ史跡公園となっている。


3. 城の見どころ

太田金山城は群馬県太田市の中心、標高235.8mの山頂に築かれている。城域は金山山頂から四方に伸びる尾根を利用してつくられていて、「実城」、「西城」、「北城(坂中)」などの曲輪群で構成され、さらに近接する八王子山にも砦があった。

金山城を訪れた日、前日に3月にしては珍しく爆弾低気圧の影響で降雪と暴風が吹き荒れた。その影響で城の中心に上がる山道は雪で埋もれ、それを乗り越えても樹木が何本も倒れており、先に進む事が不可能だった。山頂の本城付近には行けず、見ることが出来たのは八王子山の砦跡と、大手口の石塁と桜の井戸くらいであった。山城については天気の良い日に行くべきだな、と自分にとって良い教訓となった、と思う・・・(悲)


-再登城後の追記-

2012年12月24日、2010年に訪れた時に大雪の影響で辿り着けなかった太田金山城の山頂城郭部に2年越しにようやく行くことができた。城郭部は平成4年からの発掘調査をもとに堀、橋などの構造物や石垣が多数復元整備がなされている。

城の西端にあたる西城と呼ばれる曲輪までは車で行くことができる。西城の西側は最西端の見附出丸がある。そこには喰違土塁、堀切などが確認できる。西城から東に行くと、西矢倉台と呼ばれる曲輪があり、ここには二重の堀切(西堀切、下堀切)により尾根を切断している。

(下写真:西矢倉台西堀切)

さらに東に進むと、物見台下虎口が見えてくる。堀切にかかる土橋は人一人が通れるほど狭い通路で、その正面に石垣造りの虎口で防御している。その上方は物見台が設けられ、敵の頭上から攻撃できる仕組みになっている。

(下写真:物見台下虎口)

(下写真:馬場下通路木橋)

木橋をぬけ狭い通路を抜けると馬場曲輪があり、その東側には実城と呼ばれる城の中枢部とを分ける大堀切がある。堀切のそばに月ノ池と呼ばれる池がある。円形をした石組で作られた実に珍しい遺構である。そして、月ノ池の奥に大手虎口の雄大な石垣が見えてくる。何段にも重ねて築かれた石垣群の様子は近年の復元されたものとはいえ圧巻である。

(下写真:大手虎口の曲輪と石垣)

石垣群を抜けると月ノ池と対となる日ノ池と呼ばれる池がある。井戸として飲料水確保の目的の他に戦いの勝利や雨乞い等の儀式が行われたと言われる。

(下写真:日ノ池)


4. 城のポイント

①四方に曲輪を巡らせた広大な山上の要塞 ⇒金山全体を要塞化した堅固な山城

②山上に築かれた石垣、堀切、土塁

③復元された実城大手虎口の石垣群は圧巻

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