八幡山城

1. 城のデータ

[所在地] 滋賀県近江八幡市宮内町  

[築城年] 1585年  

[築城者] 豊臣秀次

[遺 構] 石垣、居館跡

[別 称] なし  

[形 状] 山城  

[登城年] 2013年1月2日

(※トップ写真:八幡山城・山麓居館部石垣)


2. 城の歴史

1585年、豊臣秀吉は養子である甥の豊臣秀次に近江内で43万石を与え、その拠点として八幡山(鶴翼山)に築かれたのが八幡山城である。秀次は廃城となっていた安土城から商人や職人を呼び寄せ、「楽市楽座」制を敷き、町割を整えた上で、城下に八幡堀を築くなど、近江内での湖上交通の拠点となるべく、八幡山城下町を建設・整備した。

1590年に秀次は清洲に移動となり、代わって八幡山城には京極高次が2万8千石で入城する。だが、わずか5年いただけで大津城に移動となり、八幡山城は廃城となってしまう。


3. 城の見どころ

八幡山城は近江国(滋賀県)のほぼ中央、琵琶湖の東岸に位置する地である。城が構えられたのは八幡山、別称・鶴翼山と呼ばれる標高283m(比高100m)の山頂である。なるほど山の形が鶴が羽を広げた形によくみえるので、鶴翼山の名があるようだ。比高100mの独立丘であるが、なかなか急峻な山だ。

八幡山城下には八幡堀と呼ばれる城の外堀としての機能の他に、舟入としても利用された運河がある。琵琶湖を往来する船は全て八幡を経由するようにしていたため、大いに町は栄えていた。八幡山城の廃城後も、八幡山は在郷町として発達し、数多くの近江商人を輩出している。また、城下町の一部は重要伝統的建築物群保存地区となっており、見どころが多い。

(下写真:八幡堀)

麓から山頂までロープウェイでも行けるのだが、それでは戦国人の気分を味わえないだろうということで、山麓から山頂まで徒歩にて踏破したが、かなりの難路で体力をだいぶ消耗してしまった。

八幡山城は山頂の城郭部と山麓の居館とに分かれた二元的な分離形態となっている。南山麓部は豊臣秀次の居館をはじめ、家臣団の屋敷跡が雛壇状に築かれているのが残っている。秀次の居館は東西約300m、南北約100mの規模を有する堂々たるものである。石垣は荒々しい野面積であるが、枡形虎口も見られ、織豊期城郭の典型例である。しかしながら、山麓部の居館部はまだまだ充分な整備がなされていないようで、崩れたままの石垣があったり、草木が繁茂するに任せた状態となっていた。

(下写真:豊臣秀次居館の石垣)

かなり苦労したが、山頂部に上がると、総石垣造の城郭部がようやく見えてくる。現在は瑞龍寺と呼ばれる寺院の境内の一部と、近江八幡市街を見下ろせる展望台とになっている。周りに高い山などがないため、近江平野を一望できてしまう。西は比叡山、北は伊吹山方面までが遠望できる。また、すぐ北方には織田信長が築いた安土城のある安土山も眼下におさめられる。戦略的にも要衝を兼ねて築かれた城であったことが理解できる。山頂部の縄張は、長方形をした本丸を中心に、北に北の丸、西に西の丸があった。さらに本丸南側には、本丸直下に設けられた犬走によって連結された二の丸があり、さらに西の丸の西方には出丸が構えられていた。

(下写真:山頂部二の丸の石垣)

(下写真:山頂部本丸の石垣)

(下写真:八幡山頂から遠望)


4. 城のポイント

①豊臣秀次が築いた山城と居館からなる城 

②山頂部に築かれた野面積の石垣 ⇒織豊期における典型的な石垣

③城下を流れる八幡堀 ⇒舟入(運河)として利用されていた



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