1. 城のデータ
[所在地] 栃木県那須烏山市城山
[築城年] 1418年
[築城者] 那須氏、沢村資重
[遺 構] 石垣、土塁、空堀
[別 称] 臥牛城
[形 状] 山城
[登城年] 2012年5月5日
(※トップ写真:烏山城・常盤曲輪石垣)
2. 城の歴史
烏山城は屋島の戦いで扇の的を射落とした那須与一の子孫が築いた城である。那須資氏の次男・沢村(那須)資重が1418年に臥牛山の山頂に築いた。1590年那須氏は小田原参陣に遅れてしまったことにより、所領没収となり、成田氏長が城主となる。
その後松下重綱、堀親良らが城主となり、この間に戦国山城が近世城郭として整備されるようになる。1672年に板倉氏が入封、城下を整備した。その後那須氏が城主となるも、家督騒動で除封。以後、永井氏、稲垣氏が続き、1725年に大久保常春が2万石で入り、その後大久保氏8代で明治を迎えることになる。
3. 城の見どころ
烏山城はいわゆる「五城三郭の城」と呼ばれるように、本丸、古本丸、北城、中城、西城、若狭曲輪、常盤曲輪、大野曲輪という、あわせて8つの曲輪を山上に配した山城である。その城域は実に広大で、東西約370m、南北約510mに達する。
一方で城山の山麓には、堀氏時代に築かれた東西約90m×南北約140m程の三の丸がある。江戸時代を通じて城主の居館があったが、明治5年の大雪の際に崩壊してしまったという。現在三の丸跡にはかなり草が生い茂っているが、切石積みの石垣が良好に残っている。跡地には寿亀山神社が建つ。
(下写真:三の丸石垣)
山麓からは七曲り、十二曲りという何度も曲がりくねった山道を登っていくことになる。七曲りが大手、十二曲がりが搦手にあたる。七曲りを登りきると谷部(堀切)に架けられた車橋跡にたどり着く。これは敵が攻め寄せたときに落とすことのできた橋が架けられていた場所であった。ということは木橋があったのだろう。
(下写真:車橋跡)
山上付近の常盤曲輪(江戸時代には二の丸に相当した)のあたりにたどり着くと、荒削りの石垣造り(野面積み)が見られるようになる。なかなか大きな石が用いられており、山城の石垣としては実に見応えがある。この付近の石垣が烏山城中、最も古式のものといわれる。常盤曲輪には塩倉などが置かれていた。
さらに上段の曲輪である本丸、古本丸、中城が城の中核部である。連郭式に並んでいて、相互に補完しあう構造だったようだ。曲輪を歩いていると、烏山城の城域の大きさがわかるだろう。現在は草木が生い茂っているため、詳細な探索が難しいが、それぞれの曲輪間には深い堀切が、また、本丸の西側には幅の広い空堀が現存している。ちなみに、若狭曲輪や大野曲輪といった曲輪については行く道が見つからなかったため、残念した。
(下写真:古本丸と本丸間の堀切)
(下写真:本丸の空堀)
また、烏山城唯一の建造物遺構として、移築城門がある。城跡からは結構離れているのだが、市内野上の民家に烏山城の搦手門が移築されて現存しているのでぜひ確認しておきたいところだ。これは明治の廃城令後に民家に払い下げられたもので、格式の高い高麗門であり、扉は透かし扉となっている。
(下写真:移築城門)
4. 城のポイント
①名族・那須氏が築いた広大な山城
②山上に残る各曲輪、空堀、堀切、車橋跡
③唯一建造物で残る搦手門
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