1. 城のデータ
[所在地] 栃木県宇都宮市本丸町
[築城年] 11世紀中期、1619年
[築城者] 宇都宮氏、本多正純
[遺 構] 土塁
[別 称] 亀ヶ城、唐糸ノ城
[形 状] 平城
[登城年] 2012年5月5日
(※トップ写真:宇都宮城・本丸清明櫓)
2. 城の歴史
宇都宮(藤原)宗円が前九年の役での功績により与えられた地に館を構えたのが宇都宮城の起源であるという。その後長年にわたり宇都宮氏は周辺を支配してきたが、1597年突如として石高を偽ったとして豊臣秀吉により備前国に配流されてしまう。
その後、1619年に本多正純が15万5000石で宇都宮城主となり、城下町の整備に取り組んだ。しかしながら、正純はいわゆる「宇都宮城釣天井事件」により失脚してしまう。代わって奥平氏が城主となるも、1668年に山形へ転封。その後譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、戸田氏7代でようやく幕末に至る。
3. 城の見どころ
宇都宮城はかつて本丸を中心に四重の堀を巡らし、二の丸、三の丸、そして外曲輪を配した輪郭式の城郭であった。城地は下野平野南部の中央、田川と支流の釜川にはさまれた微高地にある典型的な平城であった。江戸時代を通じて主に譜代大名の居城であったが、徳川将軍家の日光参詣の時に宿泊する宿城でもあった。そのため、本丸には将軍のための御成御殿があり、城主は本丸ではなく、二の丸御殿に常時居住していた。
(下写真:本丸西側の土塁と水堀 )
宇都宮城は、東側を流れる田川から水を引いた四重の堀と、異常に高い土塁に加えて、虎口には丸馬出、角馬出、内枡形、喰違いなど、軍事上の工夫を要所に散りばめて構成されていた。また、関東地方の城らしく、基本的に土塁造りであり、石垣については虎口部分や櫓台に一部使用されていた。
(下写真:本丸清明櫓と土塁)
1868年の戊辰戦争の折、宇都宮城は旧幕府軍の猛攻を受け、建物の大半が焼失し、堀なども次第に埋められてしまったため、当時の遺構となるものはほとんど無くなってしまった。しかし、平成元年からの発掘調査により、本丸内の堀の場所、深さなどが特定されたことにより、本丸の一部分である土塁と堀が現在の工法で、清明櫓と富士見櫓が木造でよみがえった。白亜の二重櫓と、長大な土塁、土塀の塁線がシンプルで非常に美しい。
清明櫓は本丸の北西隅にあり、二重であるが天守が無かった宇都宮城において、天守代用の櫓であった。
(下写真:本丸側から清明櫓を眺める)
一方の富士見櫓は本丸南西隅にあった櫓で、その名の通り、遠く富士山を眺めることができたという。両櫓ともに高さ約10mほどの規模である。
(下写真:本丸富士見櫓)
復元された土塁は驚くほど高く、10~11.5mもあるようだ。角度は45~50度の急勾配である。石垣造りであればわかるが、土塁でここまで高く、しかも急勾配に積み上げたものを見るのは、私の経験では江戸城くらいではないだろうかと思った。大規模工事だったためか、土塁の内部は鉄筋コンクリートで構築されており、表部分に土を被せ土塁のように見せているらしい。土塁の内部は歴史の展示場となっている。トンネル状の通路、土塁上に上がるためのエレベーターが設置されており、本丸内部から見ると、どちらかというと近代要塞のような印象を受けた。
(下写真:本丸内から復元土塁を眺める)
4. 城のポイント
①徳川将軍家の日光参拝時の宿城
②現在工法で蘇った土塁、清明櫓、富士見櫓、水堀 ⇒土塁内部は展示場となっている
③土塀に要所に折れが設けられているのが特徴
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