1. 城のデータ
[所在地] 茨城県土浦市中央
[築城年] 不明
[築城者] 不明
[遺 構] 本丸、太鼓門、霞門、土塁、水堀
[別 称] 亀城
[形 状] 平城
[登城年] 2010年2月3日、2013年11月14日、2014年5月11日
(※トップ写真:土浦城・太鼓門)
2. 城の歴史
土浦城の築城時期は不詳であるが、土地の豪族・若泉三郎が築いたというのが通説である。15世紀後半には小田氏、そして佐竹氏の勢力下の城になったといわれる。1590年になると、徳川家康の次男である結城城主・結城秀康の支城となっている。
1600年に3万5千石を領した松平信一が入城、この時に土浦城は本格的な近世城郭として整備されている。その後西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平氏と譜代の大名が目まぐるしく入れ替わる。そして、1687年に土屋政直が再び6万5千石を領した後、土屋氏十代の居城として明治にいたる。
3. 城の見どころ
土浦城の特徴は石垣を使わず全て土塁造りの城であることであり、関東地方の城郭の典型的な事例だ。本丸を中心に数多くの曲輪と水堀が設けられ防御を固めていた。かつては曲輪の手前に馬出や土塁に凹凸をつけた屏風折という技法が使われて、甲州流軍学の影響を盛り込んだ城であったという。現在残るのは本丸、二の丸付近のみであり、土塁・堀は戦後の公園整備に伴いかなり改変されている。本丸、二の丸水堀の塁線は現在直線的になっており、ジグザグの屏風折は見られない。
(下写真:本丸水堀)
本丸の正面には土浦城のメイン建造物である太鼓門が残っている。関東地方では唯一現存する櫓門であり、貴重な遺構だ。二階の四面に窓が設けられているのは珍しいつくりである。こちらが大手に当たる門である。屋根の上には鯱が載せられ、重厚な門扉は本丸大手の城門に相応しい。江戸時代を通じて天守のなかった土浦城にしてみれば、この太鼓門が最もシンボリックな建造物だったのではないかと思われる。
本丸の両端には二重の西櫓と東櫓が土塁上に立っている。西櫓は昭和25年に台風で崩壊し、解体されていたが平成3年に新材によって復元され、続いて東櫓も平成10年に新たに復元されたものである(木造で復元、資料館となっていて見学する事ができる)。いずれも外壁は白漆喰総塗籠仕上で、破風などの装飾や石落などの装備がない、実にシンプルな二重櫓である。
(下写真:西櫓)
(下写真:東櫓)
本丸正面の太鼓門に対して、本丸の裏手に当たる場所、つまり東櫓のそばには霞門(かすみもん)が現存している。こちらは本丸の搦手を守備する門であった。太鼓門から東櫓までは土塀・石落としが復元されており、土浦城の整備が着々と進められていて、往時の威容を感じさせてくれる。
(下写真:霞門)
公園として整備されている箇所以外にも、様々な遺構が各所に残っている。搦手門東側付近にあった旧前川口門が明治以降移転を繰り返し、現在は二の丸二の門跡に移築されている。格式の高い高麗門と呼ばれる形式である。また、土浦城の二の丸につくられた藩校である郁分館の正門も現存する。現在は土浦第一中学校の敷地となっている。
(下写真:旧前川口門)
そして、市内にある東光寺・神龍寺・浄真寺の境内にも当時の土塁の一部が残っている。実際に足を運んでみると当時の土浦城の城域が広範囲にわたっているのがよくわかるだろう。中でも浄真寺西側に残る土塁は保存状態がとくに良い(墓地の横にある)とされる。浄真寺の境内のあたりは、もともとは立田曲輪とよばれる土浦城の城内の一部であった。こういった市内に分散してしまっている過去の歴史遺産探しをするのも城ファンとしては実に面白く感じられるところだと思う。
(下写真:浄真寺に残る西側土塁)
4. 城のポイント
①甲州流軍学の土塁と馬出をもつ城 ⇒曲輪の手前に馬出・屏風折がかつてはあった
②関東地方で唯一現存する櫓門である太鼓門
③本丸搦手に位置する霞門、旧前川口門、東光寺・神龍寺・浄真寺境内に残る土塁
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