1. 城のデータ
[所在地] 福島県会津若松市神指町
[築城年] 1600年
[築城者] 上杉景勝
[遺 構] 本丸、二の丸、土塁
[別 称] なし
[形 状] 平城
[登城年] 2009年11月4日
(※トップ写真:神指城・本丸跡)
2. 城の歴史
1600年、戦国時代の武将・上杉景勝(上杉謙信の養子)が徳川家康との来るべき戦いに備え、それまで居城としていた会津若松城の西2kmの位置、大川に沿った場所に新しく居城として築いたのがこの神指城である。会津若松城は山に近く、当時はまだ守りが手薄だったからとされている。
しかし関ヶ原の戦いは西軍の敗北に終わり、上杉家は米沢30万石に大減封となってしまう。未完成の城は破却され、さらに石垣などの部資材は加藤明成の時代に会津若松城の改修工事に使われることになり、神指城は完全に廃城となった。
3. 城の見どころ
当初この神指城は行く予定はなかったが、会津若松城を見学した時、天守内部で神指城の復元パネルが展示されてあって、行ってみようと思った。とはいえ、事前にこの城の所在を全く調べていなかったし、車のナビにも登録されていない、いわば幻の城なので、行き着くのに大変苦労することになった・・・
神指城は会津若松市の郊外、周りは広大な田畑で囲まれた田園地帯にある。途中から農道を通って行くことになる。車でないとこの城にたどり着くことは難しい。近くには大川が流れるが、完全な平城である。ちょうど大河ドラマ・「天地人」放映中の時だったので、観光用ののぼりが数多く立てられてあった。
(下写真:本丸跡)
遺構として確認できるのはわずかに本丸と二の丸の土塁のみ。それでも土塁の高さ・幅の大きさ、二の丸の範囲の広大さは安土桃山時代の城郭としては最大規模であったことがわかる(二の丸を一周しようとしたがとてもまわりきれなかった)。具体的には本丸が東西180m、南北306m、土塁の高さは10.8m、二の丸は東西468m、南北522m、土塁の高さ7.2mもあった。縄張は方形の本丸を同じく方形の二の丸が取り囲む輪郭式の構造だった。
(下写真:二の丸土塁)
もし完成していれば東北地方最大級の城となっていた事だろう。上杉景勝や直江兼続の無念さが400年の時を超えて伝わってくる様だった。まさに「兵どもが夢のあと」か。
(下写真:石垣基礎石)
二の丸南西部の土塁跡には、新撰組殉難地の碑と如来堂がある。戊辰戦争の会津戦争の際、新撰組の生き残りである山口次郎(斎藤一)が十数名の隊士と会津藩兵とともに、新政府軍と激戦を繰り広げついには全滅したといわれる地である。
4. 城のポイント
①徳川家康に対抗した上杉景勝により築かれた幻の城 ⇒築城は未完成に終わる
②会津盆地の一角に築かれた巨大な平城 ⇒関が原の戦い後、城の破却にあう
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