1. 城のデータ
[所在地] 福島県会津若松市追手町
[築城年] 1592年、1639年
[築城者] 葦名氏、蒲生氏郷、加藤明成
[遺 構] 本丸、二の丸、三の丸の一部、北出丸、西出丸
[別 称] 若松城、鶴ヶ城、黒川城
[形 状] 平山城
[登城年] 2009年11月4日
(※トップ写真:会津若松城・復元天守)
2. 城の歴史
会津若松城ははじめ黒川城と呼ばれ、14世紀ごろ芦名氏が築いた館が始まりとされる。その後、1589年に芦名氏を破った伊達政宗が入城している。豊臣秀吉による全国制覇後、伊勢松坂より蒲生氏郷が73万石で入封し、城の大改修をしている。
1598年には越後春日山より上杉景勝が120万石の太守として入るが、関ヶ原の戦い後再び蒲生氏が城主となる。1627年には伊予松山から加藤嘉明が40万石で入り、五重の天守に改修するなど現在の城の姿となった。その後1643年に保科正之が23万石で会津に入り、幕末まで保科・松平氏が続くことになる。
3. 城の見どころ
福島県内の城をめぐるために、車を走らせていて思ったのが福島は会津地方をはじめ、実に広大な土地だということである。会津地方を戦国時代に支配していたのは、「会津守護職」という一国の軍事・行政権をもっていた葦名氏であった。しかしながら葦名氏は独眼竜・伊達政宗に滅ぼされる。戦国時代末期には、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝といった歴史に名高い武将達が城主となっているというところがこの城の重要性を伺わせてくれる。
会津若松城天守は白漆喰の美しい、五重五階の層塔式天守である。入口が埋門となっていて、穴蔵(地下室)から天守内部に入っていくのがとても興味深い。
(下写真:走長屋・復元天守)
(下写真:鉄門)
(下写真:糒(ほしい)櫓)
また、天守のまわりは蒲生氏時代の野面積みの石垣であるのに対して、本丸東側の高石垣部分などは、曲線が美しい布積になっているなど、時代の変遷に応じて石垣の積み方が異なっている点が面白い。
(下写真:本丸高石垣)
東北地方の城郭としては珍しく石垣が多用されており、本丸、北出丸、西出丸の大部分は石垣造りである。特に本丸東側入口である廊下橋門跡付近の高石垣は必見である。城内で一番高く20mを超えるそうだ。土塁と組合わせた鉢巻石垣も見どころだ。
(下写真:本丸廊下橋)
本丸の北側、西側には出丸をつくり、さらには入口部分を桝形とし、敵の侵入を防ぐ工夫が見られる。当時の建物としての遺構は残念ながら残っていないが、本丸をはじめ、北・西出丸、二の丸などの保存状態がよく、往時の威容を想像することができる。
幕末会津藩は幕府を助ける京都守護職についていた。その関係もあって、明治維新後の戊辰戦争では、官軍に対し会津藩は徹底抗戦を続け、この会津若松城において1ヶ月間の籠城戦を戦い抜いた戦績がある。圧倒的な新政府軍の戦力の前に結局は開城を余儀なくされてしまったが、決して落城はしなかったことから、この城の防御力の高さが伺えるかと思う。
戦後会津地方の人達は明治維新後、賊軍として長い間明治政府から過酷な扱いを受けることになったといわれる。そういった歴史を経験したうえで、会津若松城は現在においては戊辰戦争で証明した、「みちのく一の名城」としての評価を胸に会津人にとっての誇りとなっているのではないだろうか。
4. 城のポイント
①幕末戊辰戦争で証明されたみちのく一の堅城 ⇒戊辰戦争後、徹底的な破却にあってしまう
②昭和40年に外観復元された五重五階の天守、走長屋、平成13年に復元された南走長屋、糒櫓
③本丸の北側と西側につくられた出丸 ⇒戦国期からの軍事技術が応用されている
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