1. 城のデータ
[所在地] 宮城県白石市益岡町
[築城年] 1591年
[築城者] 蒲生氏郷
[遺 構] 本丸
[別 称] 益岡城
[形 状] 平山城
[登城年] 2009年11月5日
(※トップ写真:白石城・復元天守東面)
2. 城の歴史
白石城は中世においては刈田氏の居城で、戦国時代に入ると白石氏を称した白石宗綱の代には伊達家の家臣となっている。1591年、豊臣秀吉による奥州制圧後は蒲生氏郷の所領となる。このときに本格的な城郭としての改修が行われている。
1598年蒲生氏が宇都宮に移ると、上杉氏による支配を経て、関ヶ原の戦いを機会に伊達政宗が白石城を攻略し、石川氏を城代としている。1602年には仙台城の支城として、重臣の片倉景綱が1万7千石で白石城に入る。1615年の一国一城令後も残り、明治維新まで片倉氏の居城として続くことになる。
3. 城の見どころ
白石城は江戸時代、仙台藩(伊達家)の南部を守備する支城として栄えた城であった。城主は伊達政宗の重臣として有名な片倉景綱である。仙台藩は「一国一城令」後も、江戸幕府から特別に支城が認められていた。仙台藩内にはこの白石城以外にも21もの「要害」と呼ばれる支城群が存在し、その地にそれぞれの家臣団が支配権を有していた。要害は藩内の軍事的に重要な要衝の地に多く分布していた。
白石城は標高76mの小高い丘陵上に城が造られている。山頂の本丸を中心に二の丸、中の丸、西曲輪、沼の丸、南の丸、巽曲輪、帯曲輪、厩曲輪などの曲輪を配している。これらの曲輪の周囲に館堀川が流れ、天然の堀としている。本丸付近は石垣であるが、二の丸以下は土塁造りとなっている。
(下写真:天守と大手二ノ御門)
明治元年にこの白石城にて奥羽越列藩同盟が結成されたことでも有名である。しかし各藩は新政府軍に各個撃破されてしまい、仙台藩も結局は新政府軍に降伏することになる。そして明治7年に白石城は民間に払い下げられ、解体されてしまった。
城の解体後1世紀を経て市民の熱意により、町のシンボルとして平成7年に本丸跡に天守と大手門が復元された。天守は白河小峰城の御三重櫓と同じく、木造で復元されたことが素晴らしい。天守は層塔型であるが、最上階に華頭窓や高欄、廻縁があり、古式の様式を残している所が興味深い。天守台の石垣は復元にあたって積み直されたものである。
(下写真:復元天守南面)
また、本丸に入る大手門は一ノ門と二ノ門とにわかれており、二ノ門は渡櫓で本丸の入口に相応しい立派な門だ。この一ノ門と二ノ門との間を三角形の狭い通路状とすることで防御を高めている。
(下写真:大手一ノ御門)
(下写真:大手二ノ御門)
白石城の近くには侍屋敷(片倉家中旧小関家)があり、一般に見学する事ができる。天守復元を機に主屋が市に寄付され、主屋と門が修理・復元されたとのことである。白石の城下町の周囲は水量が豊富で実に綺麗な川が流れている。整然と整備された白石の静かな町並みを散策していると、本当に心安らぐものを与えてくれる気分だった。
(下写真:旧小関家屋敷)
4. 城のポイント
①仙台城の支城として明治維新まで存続した片倉家の居城
②平成7年に復元された天守・大手一の門、二の門 ⇒町のランドマークとして木造で復元
③大手門桝形 ⇒大手一の門、二の門の間を塀により三角形に絞って防御性を高めている
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