盛岡城

1. 城のデータ

[所在地] 岩手県盛岡市内丸  

[築城年] 1592年、1598年?  

[築城者] 南部信直、利直

[遺 構] 本丸、二の丸、三の丸、淡路丸、腰曲輪、石垣、水堀

[別 称] 不来方城  

[形 状] 平山城   

[登城年] 2010年5月3日

(※トップ写真:盛岡城・南の腰曲輪石垣)


2. 城の歴史

戦国時代に乱立していた南部氏の中から、天下統一を果たした豊臣秀吉によって南部信直が大名として認められる。1592年、北上川と中津川の合流点である不来方丘に10万石の大名・南部氏の居城として築城が始められる。周囲は花崗岩の多い丘陵だったため、石材の調達は容易であったが、たびたびの洪水により完成は三代目・重直の時代までかかってしまうことになる。

盛岡の名は築城する時に「盛り上がり栄える岡」になるように祈願して命名したという。以来、南部氏が明治維新まで城主として盛岡を支配する事になる。


3. 城の見どころ

寒冷地という特性から土塁造りの城が多い東北地方には大変珍しく、盛岡城は石垣造りの城である。もともと石材地であった不来方丘を利用して築城されたということと、豊臣・徳川政権下で各地の築城に関わった技術を結集したことにより、素晴らしい石垣造りの城ができたのだろう。会津若松城と白河小峰城の二城を加えて、東北地方の石垣造り三大名城と称されこともあるそうである。その中でも、この盛岡城内の本丸、二の丸周辺の石垣の構成美は東北地方随一という評価を得ている。

(下写真:二の丸石垣)

(下写真:吹上門跡への登り坂)

城の背後には中津川と北上川が流れているために、川を天然の外堀とした上で、本丸、二の丸、三の丸を一直線に並べる典型的な連郭式の縄張である。本丸の三方は腰曲輪が取り巻く。本丸は70m四方ほどしかなく、かなり狭い。もともとこの地にあった中世城郭を大改修したため、その形状を継承したものと考えられている。そのため、本丸内にあった本丸御殿の全てを収容することができず、廊下橋で接続した二の丸に表御殿を設けて居住空間を確保していたという。ここの中世城郭的要素を残す、本丸と二の丸を仕切る空堀も盛岡城の見どころの一つだ。

(下写真:本丸と二の丸を仕切る空堀)

城の攻め手側である北側には下屋敷、侍屋敷、町屋を取り囲む三重の堀に囲まれていたが、明治以降の近代化の流れにより埋められてしまい、現在は城の東側・櫻山神社が建っているその周囲に水堀が残っているのみである。現在では亀ヶ池と呼ばれているようだ。

(下写真:亀ヶ池と呼ばれる水堀跡)

また、江戸時代は北上川は城のすぐ西側近くを流れていたが、現在は城から少し離れたところを流れるようになっているのが注意を要するところだ。石垣造りで著名な盛岡城であるが、残念ながら櫓や城門などの遺構は全くなく、「彦御蔵」と呼ばれる巨大な蔵が帯曲輪に1棟残すのみである。

(下写真:彦御蔵)

かつて本丸には天守の代用とした御三重櫓を構えられていた。三階に格調高い華頭窓を並べた装飾性の高い櫓だったようだ。天守をあげられなかったのは幕府への遠慮であったという。それでも江戸時代末期には高級なこけら葺に改め、天守と公称するようになったという。御三重櫓をはじめ、盛岡城の建物は赤瓦で葺かれていたそうで、昔は見る者には東北地方に君臨する異質の城に映ったことであろう。


4. 城のポイント

①奥羽地方では珍しい石垣造りの城 ⇒地元不来方丘でとれた花崗岩で築かれた

②城内で唯一遺構として残る彦御蔵 ⇒ 全国でも屈指の規模の巨大な蔵

③亀ヶ池と呼ばれる水堀跡

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