1. 城のデータ
[所在地] 青森県八戸市内丸
[築城年] 1629年
[築城者] 南部利直、南部直房
[遺 構] 角御殿表門
[別 称] なし
[形 状] 平城
[登城年] 2010年5月5日
(※トップ写真:八戸城・角御殿表門)
2. 城の歴史
八戸城は馬淵川、新井田川の形成した洪積台地の先端に築かれている。戦国時代末、三戸の南部信直が豊臣秀吉から所領を安堵され、南部内七郡を支配するようになる。そしてその子・南部利直が八戸を直接支配するようになり、その時みずから築城と城下町の縄張を行ったといわれる。
八戸城とその城下町の本格的な整備については、盛岡城に移った重直が世継ぎを決めず没したため、幕府は弟重信に盛岡八万石を、同じく弟直房に八戸二万石を与えた事により八戸藩が誕生した後のこととなる。
3. 城の見どころ
八戸城は盛岡城を本拠とした南部藩の分家が支配した城郭である。1664年の八戸藩成立にあたり、藩主の居城・藩庁として築かれた陣屋形式の城であり、本丸と二の丸とで構成される比較的単純な縄張であったようだ。
城跡はJR本八戸駅に近接する場所に位置する。かつての本丸の規模は東西150m、南北200mであり、現在の三八城神社付近に御殿があったという。二の丸は本丸の東南にあり、角御殿、学校、馬場などがあった。また、天守や隅櫓は計画こそあったらしいが、建設されることはなく、明治維新を迎えている。城跡の周辺を歩いてみたが、八戸城跡、八戸城本丸跡、惣門跡と書いた石碑などがあるが、土塁や堀などの遺構についてはほとんど確かめることができなかった。(三八公園内に少しこんもりとした高台があったが、もしかしたらこれが土塁跡だったのかもしれない)
(下写真:八戸城本丸跡)
(下写真:本丸跡の石碑)
現存する遺構として、現在の南部会館に旧八戸城角御殿の表門が残されている。現地の案内板によると、これは1792年に御者頭・煙山治部右衛門がこのあたりに居住し、城に相応しい門をつくるように命ぜられたことによる。門はその5年後に建てられたという。門は「棟門形式」では全国でも最大規模のものであるということである。昭和53年に風雪のために倒壊してしまったらしいが、昭和55年に創建当初の形に復元された。
また、同じ八戸市内にある根城の城内に旧八戸城の東門が移築されている。1859年に台風により倒壊した後、八戸藩の家老に払い下げられたのを機に、根城に移築されたという。現在は八戸市根城史跡の広場の入口となっている。
4. 城のポイント
①角御殿の表門 ⇒「棟門形式」では全国最大級の門
②同じ八戸市内にある根城の城内にある旧八戸城の東門
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