佐野城

1. 城のデータ

[所在地] 栃木県佐野市若松町  

[築城年] 1602年か?  

[築城者] 佐野信吉

[遺 構] 土塁、堀切、曲輪

[別 称] 春日岡城、春日城、姥城  

[形 状] 平山城  

[登城年] 2013年2月11日

(※トップ写真:佐野城・本丸南側の堀切)


2. 城の歴史

佐野氏はもともと佐野市北部の唐沢山城を本拠としていた。豊臣秀吉による小田原征伐の後、佐野房綱が当主となり、豊臣氏近臣の富田氏から信吉を養子に迎えて家の安泰を図った。

しかし関ヶ原の戦い後である1602年、江戸幕府の命により唐沢山城を廃して麓の春日岡に移城させられてしまう。この時築かれたのが佐野城である。1607年には佐野信吉も唐沢山城から移転し、城下町の整備がなされたが、1614年に突如佐野氏は改易となり、わずか14年で佐野城は廃城となってしまった。


3. 城の見どころ

佐野城は唐沢山城を登城した後、東京への帰り道に立ち寄ることができた。JR両毛線・佐野駅を降りてすぐの所に城跡があり(佐野駅と城山公園とはデッキで直接つながっている)、現在は佐野城山公園として綺麗に整備されている。

(下写真:二の丸正面入口)

城跡は小高い丘の上(最も高い場所で56m)に築かれており、周囲の佐野市街を望むことができる格好の位地にある。城の規模としては東西370m、南北500mの大きさでありそれほど大きくはないが、現在でも曲輪跡、堀切、土塁など、城跡の当時の遺構が良好に残っている。城跡の周囲を歩いてみたが、高い断崖に囲まれていて容易に攻められないようになっていることが分かった。現在は道路になってしまっているが、現地にあった説明板によると、この断崖の周りは内堀となっていたようである。

(下写真:本丸断崖)

縄張は、佐野駅のある南側から三の丸、二の丸、本丸、北出丸と縦に一直線に並ぶ典型的な連郭式の曲輪であり、各部分は堀切によって分断されている。佐野城の一番の特徴はこの堀切であり、かなりの深さがある。特に二の丸と本丸間、本丸と北出丸間の堀切は深く(5mはゆうに超えていると思う)、かなり圧倒される。現在はアーチ橋によって各曲輪間が繋がっている。当時も橋を落とせば各曲輪が独立して戦える構造であったのだろう。

(下写真:本丸南側の堀切)

本丸には石畳と石垣が出土されたらしいが、井戸への通路として城の部分的に作られたものらしく、現在では保存のため埋められている。周辺には付近でとれた石を並べてそれらしい雰囲気にしている。

(下写真:本丸石畳と石垣跡)

佐野氏が築いた唐沢山城は石造りで築かれていたが、佐野城はあくまでも土造りの城であったようだ。


4. 城のポイント

①佐野氏が最後に築いた幻の城 

②各曲輪を分断する堀切 ⇒二の丸と本丸間、本丸と北出丸間の堀切はかなり深い

③現状も残る三の丸、二の丸、本丸、北出丸の曲輪

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