1. 城のデータ
[所在地] 静岡県三島市山中新田
[築城年] 永禄年間(1558~1570年)
[築城者] 北条氏康
[遺 構] 空堀、土塁
[別 称] なし
[形 状] 山城
[登城年] 2013年4月29日
(※トップ写真:山中城・西の丸の畝堀)
2. 城の歴史
山中城は戦国時代末期の永禄年間(1558~1570年)に西方への備えとして北条氏が築城した中世城郭である。その後、北条氏政は迫りくる豊臣秀吉の来襲に備えて岱崎(だいざき)出丸の新たな構築や、堀の整備などの大改修を施した。
しかし、1590年増築が未完成のまま、4万人の豊臣軍の総攻撃を受けることとなる。北条軍は四千人で必死の防戦むなしく圧倒的兵力差と鉄砲の火力の前にわずか半日で落城する。この時城主の松田康長、副将の間宮康俊は討死、豊臣方でも一柳直末がこの戦いで戦死している。戦後城は廃城となった。
3. 城の見どころ
山中城は箱根外輪山の西側斜面、標高585mの要害の地に築かれた山城である。小田原北条氏の領国支配の最西端にあたり、天下統一を着実に進める豊臣秀吉の来襲に備えて大拡張された最前線基地であった。その規模は戦国期の山城としてはかなり巨大であり、なおかつ北条氏オリジナルの技術を各所に結集した中世城郭最高峰の城郭と言ってよいだろう。
まずは最高点にある本丸を扇の要とし、ここから三方に派生する尾根筋を巧みに利用して、各曲輪を築いている。北側には北の丸を、西側には二の丸、元西櫓、西の丸、西櫓、西木戸を、さらには南側に三の丸、南櫓、岱崎出丸といった曲輪を配置している。また、城内には箱根・小田原へと続く箱根街道が取り込まれている。これを見ても小田原への街道を押さえ、西方からの侵攻を直接ここで防衛する拠点であったことがわかる。
山中城の特徴は何といっても、曲輪の外周を延々とまわる畝堀であろう。畝堀とは堀内に侵入した敵兵を自由にしないため、堀底に土の畝を堀と直行方向に配したものである。さらに畝堀が二列に並び、畝が半分ずつずれるように掘られたものを障子堀と呼ばれる。まさしく障子の桟のような形状をしていることからこの名がある。畝堀や障子堀は北条氏特有の遺構である。
(下写真:馬場曲輪の畝堀)
(下写真:本丸と二の丸間の畝堀)
(下写真:二の丸木橋)
その中でも一番の見どころは岱崎出丸の畝堀と、西櫓から西の丸にかけての障子堀であろう。岱崎出丸北斜面の畝堀は、一ノ堀と呼ばれ、箱根街道の真上に位置し、最前線の防衛施設であったようだ。ここの傾斜角は何と70度前後もあり、堀底から土塁上部まで18~20mの高低差がある。甲冑をつけた武者がよじ登るのもかなり困難を極めたのではないかと思われる。西の丸周辺の障子堀も同様に相当に広く、深く築かれている。
(下写真:岱崎出丸畝堀)
(下写真:西櫓と西の丸間の障子堀)
当初私はこの畝部分が敵兵の進入路になるのではと思っていたが、実際に堀底に入ってみると(本当は立入禁止だが・・・)、横方向の自由がとれず、傾斜角も急のため、一度入ると脱出は難しいことが分かった。また、築城当初は堀底にローム層が堆積していたらしく、そうすると余計に自由が効かなかっただろう。それだけに半日の攻撃で落城したのが信じられないくらいだ。
4. 城のポイント
①北条氏の総力を結集した山城
②岱崎出丸の畝堀、西の丸周辺の障子堀 ⇒畝堀、障子堀は北条氏特有の技術
③各曲輪に植えられている植栽 ⇒4月下旬に赤く咲く躑躅(ツツジ)がとても美しい
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