1. 城のデータ
[所在地] 山形県新庄市堀端町
[築城年] 1624年
[築城者] 戸沢政盛
[遺 構] 本丸土塁、水堀、石垣
[別 称] 沼田城、鵜沼城
[形 状] 平城
[登城年] 2013年5月4日
(※トップ写真:新庄城・本丸大手門跡の石垣)
2. 城の歴史
1622年、山形藩主の最上家が転封となると、山形藩領だった新庄には新たに戸沢政盛が6万石で新藩主となる。当初鮭延城に入るが、狭小な城であったため、1624年新庄城を築いた。義兄である山形藩主・鳥居忠政の助力があったと言われる。
1628年、1636年と相次ぐ火災に見舞われるが、その都度政盛は経済手腕を発揮し城を復興している。その後11代250年にわたり戸沢氏が新庄を世襲することになる。しかし、戊辰戦争時には新政府側についたため、奥羽越列藩同盟軍により攻撃を受け、城の大部分が焼失してしまった。
3. 城の見どころ
新庄城は中の川と指首野(さすの)川の合流点北側の湿地帯を利用して築かれた平城である。その縄張は方形の本丸と、その南側に二の丸を広大な水堀で囲み、さらにその周囲を三の丸が囲む輪郭式の構造であった。当初、本丸西側中央に天守が存在していたらしいが、寛永期の火災により焼失し、それ以後は再建されることはなかった。本丸内には御殿がたち、南東隅には武器櫓、北東隅には小納戸櫓、北西隅には大納戸櫓といった二重櫓が建っていた。
(下写真:大納戸櫓跡)
現在残っている遺構は本丸内のみであるが、本丸土塁と水堀がかなり良好な状態で残っている。城の背後(北側)は空堀となっている。水堀は深くはなさそうだが、40mを超える規模である。周囲を取り囲む土塁については大手側である南側、特に櫓が築かれていた部分はとても高く築かれていることがわかる。当時新庄城の本丸の規模は南北230m、東西95mの大きさであった。
(下写真:本丸水堀)
(下写真:本丸堀跡)
また、本丸大手門跡には切石を使い築かれた切込ハギ石垣が残っている。本丸大手門は本丸東側中央に位置する内枡形門であり、一の門が櫓門、二の門が高麗門の二重構造で、周囲を土塁で取り囲む厳重な枡形であったという。残る石垣は高くはないものの、石垣積完成期の見事な石垣である。
(この大手門跡石垣付近が新庄城の一番の見どころだったのだが、登城した当日春祭りの屋台がたくさん立ち並んでいたため、うまく写真が撮れずちょっと残念だった・・・)
現在城跡は戸沢氏ゆかりの戸沢神社の境内となっており、中央に社と鳥居が建っている。神社の祭神は戸沢家の始祖・衡盛、藩祖・政盛、11代・正実である。
(下写真:本丸跡にたつ戸沢神社)
4. 城のポイント
①戸沢氏が築いた輪郭式の城
②本丸大手門跡の石垣 ⇒切石積で築かれた石垣がみどころ
③本丸土塁と水堀が良好な状態で残る
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