鶴岡城

1. 城のデータ

[所在地] 山形県鶴岡市馬場町  

[築城年] 室町時代か、1622年  

[築城者] 大泉氏か、酒井忠勝  

[遺 構] 本丸土塁、水堀

[別 称] 大宝寺城、大梵寺城  

[形 状] 平城   

[登城年] 2013年5月5日

(※トップ写真:鶴岡城・本丸南堀と土塁)


2. 城の歴史

鶴岡城は鎌倉時代初期、関東御家人の武藤氏が地頭職として大泉氏を称し、室町時代に構えた大宝寺城が前身と言われる。戦国時代には上杉氏と最上氏の争奪の舞台となるが、最終的に豊臣秀吉により庄内は上杉景勝のものとなる。

1602年に上杉氏が米沢に移ると、代わって上杉包囲網の功績により、最上義光は庄内を加増され大宝寺城は義光の隠居城となった。1622年、家督相続をめぐる内輪争いにより最上氏は領地没収となり、代わって信濃松代より酒井忠勝が13万8千石で入城し、以後酒井氏12代の居城となった。


3. 城の見どころ

鶴岡城は庄内平野の南西部、赤川岸の微高地に立地する平城である。その縄張は鍵状の本丸を中心として、本丸を取り囲むように二の丸が配され、さらにその南の池を拡張して百間堀と呼ばれる広大な堀が掘られた。また、外郭の三の丸が設けられ、東は内川を天然の外堀とし、西・南・北の三方に堀と土塁が巡らされていた。本丸、二の丸、三の丸が回字に構えられた、典型的な輪郭式の構造であった。

また、二の丸の虎口(北・西・東)にはそれぞれ馬出が設けられ、防備がさらに固められていた。特に北側は米蔵(七ツ蔵)のスペースにされており、かなり巨大な馬出だったという。鶴岡城は土づくりの城であり、本丸の城門部分や櫓台などに石垣が利用されていたようだが、基本的に塁線は土塁であった。

(下写真:二の丸西堀)

923坪に及ぶ広大な御殿を抱えていた本丸は、総面積2789坪、二の丸は馬場、土蔵などがあり、総面積8529坪、三の丸は180軒の侍屋敷のほか、藩校・到道館、御鷹部屋、御用屋敷など、江戸時代当時、実に広大な規模を持っていた鶴岡城であるが、明治維新後、1875年に建物は解体されてしまい、現在はわずかに本丸、二の丸の堀の一部が残されているだけである。そして、本丸の中心には、明治10年になってから旧藩時代を偲んで歴代藩主を祭神とした荘内神社が建てられた。

それでも、本丸、二の丸を二重に取り囲む水堀は健在である。本丸の堀幅は11~16間あり、今でも満々と水を湛えている。塁線の土塁は高さはそれほど高くは感じないが、要所を折り曲げ、横矢をかける工夫がみられる。土塁の残存状況もわりと良好である。

本丸の北西角には御隅櫓(二重櫓)、南西角には渡櫓(平櫓)が建てられていたが、櫓台の石垣が一部残っている。

(下写真:本丸御隅櫓跡)

城の南東側には藩校・到道館が残っている。9代藩主・酒井忠徳が藩士の風紀の乱れを正し、人材を育成するために1805年に創設したものである。表御門、孔子を祀る聖廟、講堂などの建物がある。到道館では、幕府が正学と認める朱子学ではなく、荻生徂徠から始まる徂徠学を指導要領としていたという。江戸時代には珍しく、個性重視の教育を実践されていた。

(下写真:到道館表御門と聖廟)

(下写真:到道館講堂)


4. 城のポイント

①回字型で築かれた輪郭式の城

②本丸、二の丸に残る土塁、水堀 ⇒二重の水堀、塁線を構築する土塁が良好に残る

③江戸時代、庄内藩の藩校だった到道館 ⇒表御門、聖廟、講堂がある





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