1. 城のデータ
[所在地] 山形県山形市霞城町
[築城年] 1357年、1592年、1622年
[築城者] 斯波兼頼、最上義光、鳥居忠政
[遺 構] 本丸、二の丸
[別 称] 霞ヶ城、最上城、大山城
[形 状] 平城
[登城年] 2013年5月4日
(※トップ写真:山形城・二の丸東大手門櫓門)
2. 城の歴史
1356年、奥羽大崎より入った斯波兼頼が翌1357年にその居城として築いた城が山形城のはじまりだといわれる。斯波氏は子孫を領内の各所に配した上で、山形城の斯波氏は総領家として最上氏を称するようになる。
11代義光は戦国大名へと成長し、山形城を大々的に改修する。関ヶ原の戦いの戦功により57万石の大大名となったが、1622年お家争いにより最上家は転封、その後は親藩・譜代大名が目まぐるしく入れ替わることになる。1845年に水野忠清が5万石で入り、二代で明治維新を迎えることになる。
3. 城の見どころ
山形城は山形盆地の南寄り、馬見ヶ崎川の扇状地に立地する典型的な平城である。最上義光が大改修される前の山形城は現在の本丸に相当する部分の規模であったといわれる。現在の山形城の姿になったのは最上氏の後に山形に入った鳥居忠政時代である。その構造は輪郭式の縄張りで、方形の本丸を中心として、二の丸がその周囲を取り囲み、さらに広大な三の丸が城下町をほぼ覆う総構を構成していた。本丸、二の丸、三の丸ともに土塁と3重の堀で覆われる実に広大な城郭であった。
山形城も東日本の城郭の例に漏れず、基本的には土塁と水堀で構成された城である。土塁とはいえ、山形城の土塁は実に高く築かれていて堤防を思わせる巨大なものである。山形城の縄張りはシンプルであるが、塁線を要所で折り曲げ、攻め寄せる敵に対して横矢(側面攻撃)がかかるように工夫されている。また、水堀も広大で、これなら当時城外からの鉄砲の攻撃を無効にすることができただろう。
(下写真:二の丸南堀)
城の虎口(入口部分)、城門部分については高石垣による防備を施し強化されている。二の丸は東西南北4か所の入口があり、それぞれが高麗門と櫓門で構成される、いわゆる枡形虎口(内枡形)と呼ばれるものが築かれており、万全の防御態勢が整えられていた。さらに東、南、北の城門部分は枡形両脇で土塁を屈曲させ、合横矢(横矢掛りの一つ)がかかるように工夫されており、二重三重の防衛が施されていることがわかる。
(下写真:二の丸南大手門跡)
(下写真:二の丸西大手門跡)
山形城内で現存する建築遺構は残念ながら無いが、二の丸東大手門枡形が平成3年に木造で復元されている。東大手門は鳥居氏時代に改修されたものであるが、明治8年に解体されてしまったものである。史実にできるだけ忠実に、一ノ門である櫓門、多門櫓、二ノ門である高麗門、土塀を古来の建築様式で復元されているのが素晴らしい。同じく駿府城で復元されている東御門とほぼ同じような構造だ。
(下写真:二の丸東大手門枡形)
本丸については明治に入って軍の駐屯地となったため、堀が埋められてしまって、二の丸と陸続きとなってしまった。しかし、現在本丸の一文字門周辺の復元工事が進行中で、平成15年に石垣が、平成17年に大手橋が復元されている。一文字門は本丸の南東部に位置する城門で、その櫓門は漢字の「一」の字に見えることからこの名があったという。現在大手橋を渡った所の高麗門の復元工事中で、将来的に巨大な櫓門も復元される予定であるようで、実に楽しみである。
(下写真:本丸一文字門大手橋と空堀)
二の丸北大手門枡形の石垣には丸や四角などの築城工事の際の刻印が数多くみられる。天下普請の城郭によく見られる石垣の刻印であるが、一地方大名の城に見られるのは珍しい。
4. 城のポイント
①三重の堀に囲まれた輪郭式の巨城
②復元された二の丸東大手門、本丸一文字門の石垣 ⇒一文字門城門の復元工事が進む
③城門付近の石垣、巨大な土塁、広大な水堀
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