米沢城

1. 城のデータ

[所在地] 山形県米沢市丸の内  

[築城年] 1238年か、1608年  

[築城者] 長井氏、上杉景勝

[遺 構] 本丸土塁、水堀

[別 称] 松ヶ崎城、舞鶴城  

[形 状] 平城   

[登城年] 2013年5月4日

(※トップ写真:米沢城・本丸南東隅の水堀と土塁)


2. 城の歴史

1189年、奥州藤原氏攻めの功により、大江広元の次男時広(長井氏と称す)が地頭となり、1238年に築いた城が米沢城の始まりとされる。1380年伊達宗遠の置賜侵攻により、以後伊達氏がこの地を支配し、伊達政宗の父・晴宗の代で米沢を本拠とする。

1591年の豊臣秀吉による奥州仕置の後、伊達政宗に代わって、蒲生氏郷が、続いて1598年に上杉景勝が会津に120万石で入ると、米沢には重臣の直江兼続が入城する。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に属した景勝は30万石に減封、米沢へと移され、以後は上杉氏の本拠として明治まで続くことになる。


3. 城の見どころ

米沢城は伊達政宗、直江兼続、上杉景勝といった、戦国時代でも屈指の有名な武将が本拠とした城として有名な城である。しかしながら、現在城の遺構として残っているのは本丸の水堀と土塁のみであるため、かつて名をはせた戦国武将の居城であったとは想像するのは難しいのではないかと思う。

米沢城は米沢盆地の南端、最上川が形成する松川扇状地のほぼ中央部に築かれた平城である。かつては本丸を中心として、その周囲に二の丸、三の丸が取り囲む極めてシンプルな縄張り(いわゆる輪郭式)であり、土塁と水堀で防備された構造であった。当時の米沢城古絵図を見てみると、城に石垣はほとんど利用されていなかったようで、土塁と堀のみで構成される典型的な東日本特有の城郭であった。

本丸は単純な方形をしており、江戸時代には北東隅と北西隅には壮麗な三重櫓(御三階櫓)が建っていたという。特に北東隅の三重櫓は天守代用のシンボル的建物であった。しかしながら、城全体としては10基そこそこの櫓しか建てられなかったということから、外様大名として幕府から極力疑いの目を持たれないように配慮されたものであると考えられる。

(下写真:本丸北東御三階櫓跡)

現在も残る本丸を取り囲む広大な水堀が、かつての米沢城の勇姿を伝えている。堀幅は30m以上あり、現在でも満々と水をたたえている。今回訪れた5月初旬にはちょうど桜が満開で、とても素晴らしい光景だった。城と桜はいつしかセットとなっているが、堀面に浮かぶ桜の花びらがとても綺麗だった。

(下写真:本丸南堀)

(下写真:本丸南の菱門橋)

米沢城内は現在は上杉神社の境内となっている。本丸南東隅には上杉謙信の遺骸を安置したという祠堂があったが、明治以後神式に則り上杉神社に合祀されている。また、城内には伊達政宗公生誕の碑、上杉謙信公像、謙信公が七尾城攻めの際、詠んだという漢詩碑、米沢藩中興の祖として知られる上杉鷹山公像、鷹山公が子息に諭したという「伝国の辞」碑など、数々の見どころがある。

(下写真:上杉鷹山公像)

また、上杉神社に付属する稽照殿には謙信公愛用の品、直江兼続公所要の愛の前立付の甲冑など、戦国ファン必見の宝物が所蔵されているので必ず見ておきたい。

(下写真:上杉神社)


4. 城のポイント

①伊達、直江、上杉氏が本拠とした城

②現在も残る本丸土塁と水堀 ⇒四方を取り囲む広大な水堀に注目したい

③伊達政宗公、上杉謙信公、上杉鷹山公ゆかりの碑 

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