出羽松山城

1. 城のデータ

[所在地] 山形県酒田市松山町山田  

[築城年] 1781年  

[築城者] 酒井忠休  

[遺 構] 大手門、堀、土塁

[別 称] 松嶺城  

[形 状] 平城   

[登城年] 2013年5月5日

(※トップ写真:出羽松山城・大手門)


2. 城の歴史

松山藩は、庄内藩初代・酒井忠勝の三男・忠恒が1647年に庄内藩領のうち、新田など2万石を分知され、庄内藩の支藩として立藩された。当初居所は城ではなく陣屋であったが、三代藩主・忠休が若年寄に出世し、幕府から5000石の加増と御用金2000両が与えられ、城を構えることが許された。1781年に築城が着手され、7年の歳月をかけて完成した。

以後松山城は分家・酒井氏の居城として明治を迎える。戊辰戦争時には、松山藩は宗家の庄内藩とともに奥羽越列藩同盟側についたため、廃藩後破城の憂き目にあっている。


3. 城の見どころ

松山城は現在は酒田市内、旧飽海郡松山町の中心地にあり、大河・最上川の東側に位置する。城はJRの最寄り駅からはかなり離れているので、交通アクセスには十分注意した方がよいだろう。ちなみに私は今回登城時JR余目駅から徒歩にて城に行ったが、かなり遠くてとても大変だった・・・

城の構造は、本丸を中心として南北と東から二の丸が囲み、それを南北と西から三の丸が囲む梯郭式の縄張であった。しかしながら、現在は当時の旧状をほとんどとどめておらず、城の一部が松山歴史公園(松山文化伝承館)として整備されている。

山形県内で唯一残る城郭建造物として松山歴史公園の一角に大手門が建っている。この城門は1790年の落雷により一度焼失したが、1792年に再建されたもので、2万5000石の小藩のわりにはかなり巨大で立派な城門である。桁行5間、梁間3間、入母屋造、桟瓦葺の櫓門で、総ヒノキ造に白壁、屋根の上には1.5mの鯱が載っている。しかも瓦は寒冷地によく利用された赤瓦(表面に釉薬を塗って焼いた瓦)で実に風格がある。明治になって取り壊されかけたが、町民の強い要望により取り残されたという。また、松山歴史公園内には馬出跡の土塁、堀の一部が残っている。

(下写真:大手門と堀)

(下写真:馬出跡の土塁)

松山歴史公園の周辺にも、松山城の遺構がいくつか点在して残っている。物見櫓跡、藩校・里仁館跡、本丸御殿跡、そして十三間堀と呼ばれる外堀がある。十三間堀は現在貯水槽としてかろうじて一部が残されている堀だ。周囲は桜並木となっている。十三間堀がある場所はなかなかわかり難いので、事前に場所を確認しておいた方がよいだろう。

(下写真:十三間堀)


4. 城のポイント

①山形県内の城郭建築物で唯一残る大手門

②土塁、十三間堀など ⇒松山歴史公園内と、その周辺に遺構が点在する

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