小田原城

1. 城のデータ

[所在地] 神奈川県小田原市城内  

[築城年] 15世紀ごろ、1591年、1632年  

[築城者] 北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝 

[遺 構] 本丸、二の丸、三の丸の一部  

[別 称] なし  

[形 状] 平山城  

[登城年] 2009年11月26日、2013年5月23日

(※トップ写真:小田原城・復興天守)


2. 城の歴史

小田原城が歴史の表舞台に出るのは1495年、伊勢新九郎(後の北条早雲)が大森氏から城を奪取したことから始まる。その後、北条氏が五代(早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直)に渡って関東に君臨し、歴代の城主が城域を順次拡大させ、豊臣秀吉の小田原征伐の際には全周9kmにわたる総構えが完成していた。

1590年に北条氏が滅亡してのちは、関東に移封された徳川家康の家臣である大久保忠世・忠隣が入り、その時に本格的な近世城郭に生まれ変わった。その後は阿部氏、稲葉氏、大久保氏と城主が入れ替わり、明治維新を迎えることになる。


3. 城の見どころ

小田原城は東海道新幹線の車内からも白亜の天守が眺められる小高い丘の上に築かれており、現在でも小田原市のシンボルとなっている。ただし、天守は1960年に外観復興された鉄筋コンクリート造の建物である。明治維新後の取壊しに加えて、1923年の関東大震災の直撃を受けて、石垣についてもかなりの部分が壊れてしまったのが残念である。

それでも天守をはじめ、1934年に平櫓、1950年には城の防御の要であり、かつ本丸の正門である常盤木門、1997年には二の丸の正門である広大な銅門(あかがねもん)が、そして2009年には二の丸の正面に馬出門まで復元され、城のかなりの部分が整備されてきている。「城」とは天守だけでなく、石垣、堀、櫓、門、塀など様々な防御施設が連携してはじめて「城」と言える。

(下写真:二の丸平櫓)

(下写真:馬出曲輪馬出門)

天守については鉄筋コンクリート造であるが、二の丸銅門は材料にスギ、マツ、ヒノキなど原材を用い、土塀も旧来の工法で復元されている。古写真、発掘調査、絵図、文献などを参考に建築された復元技術の結集といえよう。現在の国指定史跡内の復元方針が旧来の木造で出来る限り過去の姿を忠実に復元しようという風になっていることが城ファンにとっては嬉しい限りである。銅門の規模、桝形の面積は実に巨大であり、二の丸虎口部最大の防御施設であったということがよくわかる。

(下写真:二の丸銅門入口)

(下写真:二の丸銅門)

(下写真:本丸常盤木門)

小田原城は戦国期、北条氏の居城であり、最盛期には全周9kmに及ぶ総構が築かれていた。土塁等の遺構は小田原市内に何ヶ所か残されているのだが、今回は時間の関係で見に行くことはできなかった。現在の小田原城は江戸時代以降、大久保氏、稲葉氏の築城であり、戦国時代の北条氏による小田原城とは規模・様式がかなり異なっているという点に注意である。

小田原城は戦国時代、名将といわれた武田信玄や上杉謙信ですらも落とせなかった名城であり、江戸時代には、東海道を行く人々の宿場町・交通の拠点であった。立地上、小田原は関東地方への喉元にあたるため、その重要性から代々譜代大名が支配し、西国からいざ敵が攻め上って来たときに江戸を守護し、立ち塞がる天下の堅城という位置づけであった。


4. 城のポイント

①東海道の関東への喉元を押さえた天下の堅城

②復元された天守、常盤木門、銅門、平櫓、馬出門など

③三の丸に一部残る土塁

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