武蔵松山城

1. 城のデータ

[所在地] 埼玉県比企郡吉見町南吉見  

[築城年] 1333年、1399年  

[築城者] 新田義貞、上田友直  

[遺 構] 曲輪、土塁、空堀

[別 称] 城山  

[形 状] 丘城   

[登城年] 2013年10月14日

(※トップ写真:武蔵松山城・本丸跡)


2. 城の歴史

1333年、新田義貞が鎌倉幕府を攻撃する際、用兵を駐屯させた場所といわれるのが城の起源とされる。その後1399年、大河原安戸城主・上田左衛門尉友直が本格的な築城を行った。

戦国期北条氏綱が城を攻撃、上田朝直は敗れるも、岩槻城主・太田資正の助力により城を奪回、しかし上田氏は結局北条氏に屈服。1561年、上杉謙信の攻撃で落城するが、北条氏康・武田信玄の攻撃により再び北条方が奪回。小田原合戦の際、北国軍の攻撃により落城。徳川家康の関東入封後、松平家広が入ったが、1601年、弟の忠頼が浜松城に移ると廃城となった。


3. 城の見どころ

「松山城」というと一般に岡山県の備中松山城か、もしくは愛媛県の伊予松山城が連想される。どちらも明治維新まで残った近世城郭で、現存天守を持つ貴重な城郭だ。それに対してこの埼玉県にある松山城は戦国期までのいわゆる中世城郭であり、上記の二つの松山城とは規模、体裁ともに全く違っている。

しかしながら、戦国時代関東甲信越地方の歴史本を見ると(具体的には武田、北条、上杉といった戦国大名による抗争の本)、この松山城の記述がかなり出てくるところから、いかに名だたる戦国大名にとって重要な城であったかがわかる。松山城は武田信玄、北条氏康、上杉謙信といった戦国大名達がまさに鎬を削った関東の激戦地だった。

地形的には現在の埼玉県のほぼ中央に広がる比企丘陵の東端に位置し、ここから東、南方は広大な関東平野が広がる戦略・戦術上の要衝であった。城は小高い丘にあり、三方は市野川により囲まれ、丘陵を大きく蛇行し、急峻な地形を形成している。城山の麓は断崖となっていてまさに天然の要害といったところだ。

(下写真:城山を遠望)

城の縄張は本丸を中心に、その東に二の丸、三の丸(春日丸)、曲輪4(三の丸)がほぼ直線状に並ぶ連郭式の構成が中心で、その周囲にはいくつもの小さな曲輪(平場)がつくられている。それぞれの曲輪には空堀が築かれていて、特に本丸と二の丸の間の空堀は幅15~20m、深さ10mと松山城中最大の規模を誇る。

(下写真:三の丸と曲輪4間の空堀)

(下写真:二の丸と三の丸間の空堀)

本丸は丘の最高所にあり、東西45m×南北45mほどの大きさである。本丸には社殿の基礎跡のみが残っている。また、本丸の東北部には櫓台といわれる少し高台になっているところがある。

(下写真:松山城址碑)

本丸から北東方向には二の丸、三の丸(春日丸)、曲輪4といった主要な曲輪が続くのだが、草木がかなり生い茂り、極めて整備状況が良くないため、非常に歩きづらく、見学もし難い。現地の案内板によると、松山城跡は全域が民有地らしく、学術的な調査や城郭整備があまりなされていないようである。

城山の麓には岩室観音と呼ばれる岩を穿ってつくられた石仏が安置されているお堂がある。懸造と呼ばれる珍しい様式で、歴代の松山城主も代々信仰の対象としていたようである。

(下写真:岩室観音)


4. 城のポイント

①名だたる戦国武将が争った関東の激戦地となった城

②本丸、二の丸、三の丸、曲輪4に残る土塁、空堀跡

③城山の麓にある岩室観音堂

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