1. 城のデータ
[所在地] 埼玉県川越市郭町
[築城年] 1457年、1609年、1639年
[築城者] 太田道真・道灌、酒井忠利、松平信綱
[遺 構] 本丸御殿、櫓跡、土塁、堀
[別 称] 初雁城、霧隠城
[形 状] 平山城
[登城年] 2008年5月8日、2013年10月27日
(※トップ写真:川越城・本丸御殿玄関)
2. 城の歴史
城の創建は1457年、関東管領・扇谷上杉氏の家臣だった太田道灌が築いたとされる。1537年、新興勢力の北条氏綱により川越城は北条氏の支城となる。1545年、8万の扇谷・山内上杉軍と古河公方・足利晴氏連合軍に対し、8千の北条氏が勝利した有名な「河越合戦」はこの川越城が戦闘の舞台であった。
豊臣秀吉による小田原合戦後は徳川家康の重臣・酒井重忠が城主となる。1639年に松平信綱が入り、城の大規模改修がなされた。その後も歴代譜代の大名が川越城を支配していた。明治以後は他の城と同様に城内の建物も順次取壊された。
3. 城の見どころ
小江戸として有名な観光地でもある川越は江戸時代を通じて代々譜代、親藩の家柄が治めた地であった。江戸の背後を守護する重要な拠点として、常に徳川政権中枢の役目を担ってきた。そして、現在メインストリートである「蔵造りの町並み」は明治26年の大火による教訓としてつくられた歴史風情ある通りである。城下町の一角には「時の鐘」と呼ばれる時間を知らせるための鐘を置いた塔が町のシンボルとしてたっている。「時の鐘」は、酒井忠勝が造らせたものが最初であるといわれている。
(下写真:時の鐘 )
その「蔵造りの町並み」を抜けて川越市役所前には川越城を最初に築いたとされる太田道灌の像がたつ。市役所の辺りが川越城の大手門があったところで、ここからはかつての川越城内に入っていく。現在は完全に市街化されてしまって、城の全体像を想像するのはかなり難しい。当時の川越城はいくつもの曲輪からなり、二重三重に水堀が巡らされた上に、城の三方(北・東・南側)を水田・湿地帯で囲まれた地形であり、強固な防御を誇っていた。川越城も他の関東地方の城と同様に、石垣は用いられず、総土塁造りの城郭であった。
市役所から東に進んでいくと、2010年に整備された中ノ門堀跡が見えてくる。ここは外曲輪への虎口にあたり、西大手門方面から城内に敵が攻め込んだ時に防衛する拠点で、三本の堀に挟まれた食い違いによって直進できない工夫がされていた。この堀の深さは7m、幅18mにおよび、城内の法面勾配は60°というかなり急傾斜の土塁であり、その迫力には圧倒される。そして、この位置に中ノ御門と呼ばれる櫓門がかつては建っていた。
(下写真:中ノ門堀跡)
現在の川越城で特に有名なのは、全国でも数少ない御殿建築の一部が現存している事である。御殿建築が現存するのは他に静岡の掛川城、京都の二条城、四国の高知城くらいである。当時1025坪もあったとされる広大な御殿建築のうち、165坪が現在残っている。玄関は実に巨大で、銅板の屋根に唐破風をのせて装飾性を高めた建物である。ちなみに以前2008年に訪れた時は屋根の銅板が経年変化により緑青色に変色していたが、最近の本丸御殿の本格的な改修工事により、この銅板屋根も葺き替えられていて、銅の赤味が実に鮮やかで印象的だった。
(下写真:本丸御殿玄関)
かつての建築群の一部のみとはいえ、本丸御殿の内部を見学すると、36帖敷きの広間を始めとして、武家が作り出した建築様式である書院造の傑作を味わう事ができるだろう。また、廊下は幅9尺と広く、17万石の大名に相応しい体裁である。
(下写真:本丸御殿広間)
そして、広間の西側には家老詰所がある。これは藩政を取り仕切っていた家老が詰めていた建物で、明治初期に解体され民家に移築されていた建物であるが、平成元年になって市に寄贈され、当初位置と違うところだが本丸御殿に移築復元がされた。家老詰所の縁側から眺める庭園の風情が素晴らしい。
(下写真:家老詰所)
本丸御殿の東側には三芳野神社が鎮座している。酒井忠勝が城の守護所として創建した神社で、この境内にかつて天神曲輪と呼ばれた土塁が現存する。注意深く観察しないと土塁であったことに築かないだろう。
また、本丸御殿の南方にはかつての富士見櫓跡とされる高台がある。当時天守代用の三重三階の櫓が建っていた場所であるが、現在は木々で覆われており、その痕跡をを全く確かめることが出来ないのがとても残念である。
(下写真:富士見櫓跡)
4. 城のポイント
①江戸の背後を守る幕閣重鎮の城 ⇒歴代譜代の大名が川越を支配した
②現存する本丸御殿 ⇒高知城、二条城とならぶ貴重な御殿建築の建物を残す
③近年整備された中ノ門堀跡、天神曲輪の土塁、喜多院境内の土塁など
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