浜松城

1. 城のデータ

[所在地] 静岡県浜松市中区元城町  

[築城年] 1570年  

[築城者] 徳川家康

[遺 構] 天守曲輪、本丸北面の石垣

[別 称] なし  

[形 状] 平山城  

[登城年] 2004年11月7日、2013年12月29日、2014年4月27日

(※トップ写真:浜松城・模擬天守)


2. 城の歴史

1569年、遠江をほぼ平定した徳川家康はそれまでの本拠地・岡崎城から居城を移し三方原台地の先端に浜松城を築城した。1571年には武田信玄の侵攻にさらされ、三方原の戦いでは大敗北を喫し、ほうほうの体で浜松城に逃げ込んでいる。その後も改修強化に励んでおり、家康時代には天守があったとされる。

家康が関東に移ると、秀吉家臣の堀尾吉晴が浜松城に入るが、1600年の関ヶ原の戦い後は再び徳川譜代の大名が城主となっている。浜松城主から老中などの幕府要職を輩出したため、浜松城は譜代大名の出世城といわれるようになった。


3. 城の見どころ

浜松城は比高25mの台地先端を利用して築かれた城で、天守台のある天守曲輪を最高所として、その東に一段下がって本丸、さらに東側に一段下がって二の丸を一直線に並べ、二の丸の南側を三の丸で囲みこむ縄張であった。本丸と天守曲輪の北方は深い谷となっていて、天然の要害の地であった。

天守曲輪は徳川家康時代の本丸といわれ、規模自体は決して広くはない。この天守曲輪の中心に天守台が築かれている。この天守台は実に規模が大きく、家康時代に建てられた天守はかなり巨大なものであったと推定される。現在の浜松城の天守はコンクリート造の模擬天守である。建築の際に予算不足により、天守台の半分を使って建てられたため、ずいぶんと規模が縮小されたらしい。確かに天守台の北側がぽっかりと空いていて、言われてみると不自然な感じがするかもしれない。浜松城の天守は江戸時代にはすでに失われていたようで、家康時代の天守がどのようなものであったかは全くの不明である。

(下写真:模擬天守と天守門)

浜松城の最大の特徴は自然石を積み上げた荒々しい野面積の石垣だろう。天守台から天守曲輪まで巨石で累々と積み上げられた様は実に圧巻である。積み方自体は古式ではあるが、天守台の石垣などはよくよく見てみると、石垣隅部を長短交互に積み上げる算木積になっており、江戸時代に入ってからも度々の改修を受けていたであろうことが想像される。

(下写真:天守曲輪の石垣)

2014年に天守曲輪東側の入口にあたる天守門が復元された。天守門は門の上に櫓を載せる櫓門形式であり、非常に厳重である。また、地元天竜の木材を使用しているそうである。あわせて天守門両脇の土塀も復元されている。これら一連の復元整備事業により浜松城の景観が一変している。

(下写真:天守門)

この天守門入口脇の石垣の積み方がなかなか珍しくて、石垣下部に巨大な竪石を入れている。算木積が未発達であるこの築造形式からして、城内でも最古の部類に入る石垣といわれており、徳川家康時代の可能性もあるそうだ。それにしても当時これだけの巨石をよく持ち上げて積めたものだとつぐつぐ思う。

(下写真:天守門脇の石垣)

(下写真:天守曲輪内から見た天守門)


4. 城のポイント

①徳川家康が戦国時代末期に築いた城郭 ⇒江戸時代は譜代の出世城と呼ばれた

②野面積で築かれた天守台、天守曲輪の荒々しい石垣

③天守曲輪の入口である天守門が復元されている

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