園部城

1. 城のデータ

[所在地] 京都府南丹市園部町小桜町 

[築城年] 1619年 

[築城者] 小出吉親

[遺 構] 本丸巽櫓、本丸櫓門、番所、石垣、外堀

[別 称] 園部陣屋  

[形 状] 陣屋  

[登城年] 2014年1月2日

(※トップ写真:園部城・本丸巽櫓)


2. 城の歴史

戦国時代に丹波国を支配していた波多野氏の家臣である荒木氏が中世園部城を守備していたといわれる。1578年、織田信長の命を受けた明智光秀らの攻撃により園部城は落城したといわれるが、当時の詳しいことはわかっていない。

その後、1619年に但馬出石城から小出吉親が2万8000石で園部に入り、この時に近世園部城が築かれる。小出氏はその後幕末まで城主として支配することになる。1868年、最後の藩主・小出英尚により、明治天皇の行在所として、櫓などの増築工事がなされたが、1872年の廃藩置県により城は廃城となった。


3. 城の見どころ

園部城は小麦山と呼ばれる小高い丘陵の南東の麓に築かれた比較的規模の小さな城である。方形の本丸を中心にその外側に家臣屋敷が並ぶ二の丸を配置するという極めてシンプルな縄張であった。本丸には4つの櫓と大手門が建てられ、詰城となる小麦山にも天守替わりの御三階櫓が建てられていたという。

現在園部城は府立園部高校の敷地内である。敷地内はもともと城だったため、周囲より高くなっていることがわかる。敷地の角に本丸巽櫓と大手門が並ぶ形で現存している。本丸巽櫓は創建当時の櫓であり、一重目の屋根に千鳥破風を持ち、軒の大きく出た屋根はさながら社寺建築を思わせる独特の外観である。

(下写真:本丸巽櫓と大手櫓門)

大手櫓門は城の表玄関として相応しい実に堂々とした構えではあるが、実戦には不向きではなかったのではないかという。二階の内部は低く、梁が頭にぶつかる低さで、しかも格子窓は開放的すぎて敵から身を隠せない。また、格子窓の左右に付属する狭間は大筒用とのことだが、実際に使えたかどうかは不明とのことである。それでも、櫓門は幕末に修築されたものということで、日本の城郭建築の最終形として非常に貴重なものといえる。

(下写真:大手櫓門)

大手櫓門を入ってすぐ横に番所がある。曲線を描く起(むくり)屋根となっておりなかなか珍しい。番所の遺構自体珍しいが、城門とセットになって残る番所は実に貴重である。登城した当日は年明けすぐの1月2日だったので当然城門が閉まっていたが、裏口からこっそり中に入って見学させてもらった。

(下写真:番所)

現在園部高校となっている本丸跡東側の園部公園の一角には城郭風の南丹市国際交流会館が建っている。白亜の巨大な三重天守でつくられているが、園部城のもともとの遺構ではないので見学時に注意が必要だ。イベントなどに利用される多目的ホールや研修施設などとして使われているらしい。

(下写真:南丹市国際交流会館)

小麦山は園部城の裏手(西側)から登っていくことができる。現在は山林で覆われているので、山頂からは眺望があまり効かないが、江戸時代はよく周辺を眺めることができたのだろうと思う。現在山頂には明治以降に建てられた石碑がある(殉国碑など)。


4. 城のポイント

①幕末に大改修された日本城郭建築最終形の城

②現存する本丸巽櫓、大手櫓門、番所など 

③麓の居館と詰の城として機能した小麦山の二重構造

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