1. 城のデータ
[所在地] 静岡県掛川市西大渕
[築城年] 1578年
[築城者] 大須賀康高
[遺 構] 本丸、各曲輪、堀、城門
[別 称] 松尾城
[形 状] 平山城
[登城年] 2013年12月29日
(※トップ写真:横須賀城・本丸南東の高石垣)
2. 城の歴史
横須賀城は武田勝頼により落とされた高天神城を奪回する目的で、徳川家康が1576年に大須賀康高に命じて築かせたものである。ここを拠点に1581年、家康は高天神城を攻略した。
1590年家康が関東に移封すると、康高の養子・大須賀忠政も久留里城に移動となり、次に有馬豊氏が城主となった。1600年の関ヶ原の戦い後、有馬氏は福知山城に移動となり、再び大須賀忠政が6万石で入封した。その後、松平氏、井上氏、本多氏が続き、1682年に西尾忠成が2万5000石で入って以後は西尾氏8代続き、明治維新を迎えることになる。
3. 城の見どころ
大須賀城はJR東海道本線・袋井城からバスで20分程南へ走ったところにあり、まわりは田園地帯が広がる、とてものどかな地にある。最寄りのバス停からしばらく歩くと、外堀跡と西大手門跡が見えてくる。道路沿いに外堀跡が広がるが、現在は埋まっていて更地(畑地か?)となっているが、外堀の城側には土塁が東西に延びており、当時のようすがおおよそ想像できる。だが、この外堀の南側は入江が拡がっていたそうで、現在は完全に陸地化しているのでこちらの方は容易に想像できない。
城は当時海岸沿いの低丘陵上にあり、本丸を最高点に、本丸の西側に西の丸、二の丸を、本丸の東側に三の丸をつなげた典型的な連結式の縄張であった。東・西のそれぞれに大手門を設けていたが、現在東側については完全に市街化しており、遺構は見られない(東大手門があった跡を示す標はあった)。
城の最大の特徴は天竜川から運ばれたという、丸い川原石で石垣が築かれていたことである。どうやら石垣用の石材を周辺で確保することが困難だったためのようである。近年、発掘調査が実施され、石垣の姿が本丸の南面に当時の丸い川原石によって復元されている。実際このような丸い石垣を見るのは初めてだと思うが、築城当時もこのようにうまく石を高く積上げられたのかどうかは疑問に感じたところである。本丸南東には本丸へ上がるスロープとともに高石垣が復元されていてなかなか圧巻である。
(下写真:本丸南の櫓門跡)
(下写真:本丸南東の高石垣)
本丸の北側には天守台の遺構が整備されている。発掘調査の結果、礎石と建物を囲う縁石が発見されており、それをもとに礎石が復元されている。ちなみに横須賀城を描いた古絵図(縄張図)によると、かつては天守台には三重四階の天守があったとされるが、その詳細はよくわかっていないようだ。
(下写真:天守台跡)
また、本丸の南東には三日月の形状をした三日月堀が現存している。武田氏がよく活用した形状の堀であり、もしかしたら、武田氏の影響を受けた徳川時代に築かれたものの名残が継承されたものであるのかもしれない。
(下写真:三日月堀)
そして、城の近くの撰要寺には本多氏時代に建てられた不明門(あかずもん)も現存している。撰要寺には城主であった大須賀家、本多家の墓所もある。
(下写真:不明門)
4. 城のポイント
①川原石の石垣で築かれた城郭 ⇒天竜川の丸い石が利用されている
②近年の発掘調査で復元された石垣、天守台跡
③現存する三日月堀、撰要寺に残る不明門
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