掛川城

1. 城のデータ

[所在地] 静岡県掛川市掛川  

[築城年] 1511年、1590年  

[築城者] 朝比奈氏、山内一豊

[遺 構] 天守丸、本丸、二の丸、三の丸、御殿、太鼓櫓

[別 称] 雲霞城、松尾城  

[形 状] 平山城  

[登城年] 2004年11月7日、2013年12月29日

(※トップ写真:復元天守)


2. 城の歴史

駿河国守護の今川氏親が遠江攻略の拠点として朝比奈氏に築城させたのが掛川城の始まりといわれる。1560年に桶狭間の戦いにおいて今川義元が倒れると、今川氏の勢力は急激に衰えてしまう。そして1568年に徳川家康に包囲され、籠城戦約半年の後、講和開城となり、以後徳川家康の領有となる。

家康が関東に移ると、山内一豊が5万石で掛川城主となる。この時に掛川城は大改修を受け近世城郭へと生まれ変わる。山内氏が土佐に移った後は、主に譜代大名が歴代城主となり、最後には太田道灌の子孫である太田氏の代で明治に至る。


3. 城の見どころ

掛川城は城の南側を流れる逆川を外堀とし、丘陵地形をうまく利用した天然の要害の城である。掛川城の特徴は、城内に二の丸御殿の建築が現存していることである。他に御殿建築が残っている城は川越城、二条城、高知城など数例しかなく非常に貴重な現存遺構である。襖や戸などを開け放しているので、かなり広々とした印象を受ける。書院造の典型的な事例である。ほとんど飾り気のない質素な部材の構成を見ていると、倹約を常としたであろう武家の住まいに相応しいものだと実感した。

丘陵上には絵図や発掘調査の成果により、平成六年に木造で復元された天守がたっている。城主であった山内一豊の転封先である高知城の天守をモデルに作られたとのことである。確かに外観意匠が何となく高知城天守に類似しているなと感じる。

城内には発掘調査により復元された大手門、三の丸に移築された太鼓櫓が立っている。数年前に大河ドラマで「山内一豊の妻」が題材になったということもあり、掛川城の整備が今後も整備がどんどん進められると期待できそうである。

(下写真:復元された大手門)

(下写真:太鼓櫓)


-再登城後の追記(2013年12月29日)-

年末年始休暇を利用して、およそ10年ぶりに掛川城に再登城した。前回掛川城を訪れたのが(2004年11月7日)私が学生時代の時で、その当時は撮った写真が極端に少なかったこともあり、今回掲載写真を総入れ替えしている。掛川城はJR掛川駅から徒歩ですぐの所にあるので、新幹線で行っても訪れるのに便利だ。

前回登城した時と城自体は大きく変わっていなかったが、天守最上階の廻縁に出る扉の所にアクリル製の板が張られてあった。以前訪れた時はたしか無かったはずだが、危険(転落)防止のためか、廻縁に出られないようになっていた。最上階から眺める景観を楽しみにしていただけにちょっと残念であった。

掛川城は何といっても現存二の丸御殿である。5万石の中級大名の御殿であるので、規模自体は決して大きくないが、武家の建築様式である書院造の粋を味わうことができる。藩主の謁見の間である大書院(御書院上の間)の床の間、違棚、障子窓が書院造の特徴だ。現在の御殿は安政の大地震(1854年)に倒壊後の再建であるので、比較的新しいものだ。

(下写真:二の丸御殿外観)

(下写真:二の丸御殿内部・御書院上の間)

その他にも掛川城は数多くの見どころがある。本丸東側には十露盤(そろばん)堀、三日月堀と呼ばれる独特の形状をした堀が整備されている。また、逆川の南側には移築復元整備されている大手門と番所(現存)があり、市内の円満寺には元三の丸の城門であった蕗(ふき)門が移築されている。

(下写真:三日月堀)

(下写真:蕗門)



4. 城のポイント

①山内一豊が大改修を施した東遠江の拠点的城郭 ⇒今川氏、徳川氏、山内氏が支配した

②現存する二の丸御殿、太鼓櫓

③平成6年に復元された天守、四足門、大手門

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