1. 城のデータ
[所在地] 茨城県守谷市本町
[築城年] 鎌倉時代
[築城者] 相馬氏
[遺 構] 曲輪、土塁、空堀
[別 称] なし
[形 状] 平城
[登城年] 2014年6月1日
(※トップ写真:守谷城・城址)
2. 城の歴史
伝説によれば守谷城は、前身となる城塞を平将門が築いたとされている。鎌倉時代に将門の叔父方の子孫である相馬師常が平台山と称する島状の台地に築城した。1566年には城主・相馬治胤がこの城を古河公方に提供し関東の拠点としたという。
徳川家康の関東入国に伴い、土岐定政が1万石で守谷を領することになる。1617年、二代定義が高槻に加増移封となったが、3年後に再び三代・頼行の時代に守谷に復帰する。1627年に出羽上山に移され、守谷は幕府領となり、守谷城は廃城となる。
3. 城の見どころ
守谷城は時代によって二つの城域に分けられる。一つは鎌倉時代に平台山に最初に築かれた城郭を守谷本城とも呼ばれる。戦国時代に入り、戦闘様式等の変化に伴い増築・移転した城域が現在守谷小学校(本郭があった)のあたりである。
この守谷本城は三つの曲輪に分割され、各曲輪は大規模な土塁と堀によって区画され、その堀には水が入り込み舟着き場もあったという。現在は完全に守谷城跡の周辺は平地となっているが、戦国時代当時は、小貝川水系の水が城域すべてを取り囲んでおり、まさに水に浮かぶような城郭であったようだ。
今回守谷城で訪れることができたのは、戦国時代以降に築かれたとされる城郭の方だ。守谷小学校の近くに当時の土塁が現存しており、その横に城址と案内板がたっている。
(下写真:土塁)
また、近くには平将門城址と書かれた石碑がたっている。実際に平将門がこの地に城塞を構えたのかは不明なのだが、この周辺を本拠としていたので、活動範囲であったことは間違いないと思われる。近くの林の中に天慶の乱(平将門の乱)殉死者の供養塔もあった。
(下写真:平将門城址)
守谷小学校のそばには和田の出口と呼ばれる、守谷城二の丸出口にあたる所の跡が残されている。この下方には舟着き場があり、当時は軍事上、経済上の拠点を占めていたという。この出口付近に現在も由緒ある榎の木がたっている。
今回は守谷本城の方は途中で道に迷ってしまい、行くことができなかった。土塁や堀の跡が随分良好に現存しているということなので、また再度訪れてみたいと考えている。
4. 城のポイント
①市内各地に残る土塁跡
②平将門が築いたとされる城址
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