1. 城のデータ
[所在地] 茨城県水戸市三の丸
[築城年] 12世紀末ごろ、1602年
[築城者] 馬場資幹、佐竹義宣
[遺 構] 堀、土塁、薬医門
[別 称] 馬場城
[形 状] 平山城
[登城年] 2010年2月3日、2014年8月5日
(※トップ写真:水戸城・弘道館正庁)
2. 城の歴史
水戸に最初に城が築かれたのは鎌倉時代までさかのぼり、常陸大掾・馬場資幹によるといわれる。このため、城は馬場城と呼ばれていた。ところが、1426年に馬場氏の留守を狙って江戸通房が城を占拠・拡張し、水戸城と改称したという。
豊臣秀吉による関東制圧後は佐竹氏が54万石で水戸城に入り居城とする。しかし、関ヶ原の戦い後、佐竹氏は出羽秋田に転封されてしまう。次に武田信吉、徳川頼宜らが水戸城主とななり、1609年に徳川家康の11男・徳川頼房が25万石で入封、後に35万石に加増されて、水戸徳川家の藩祖となる。
3. 城の見どころ
水戸城は那珂川と仙波湖に挟まれた洪積台地に立地する。水戸駅から向かったが、なだらかな傾斜が続き城付近が高台にあることがわかる。水戸城は本丸、二の丸、東二の丸が城の核だが、その中心は本丸ではなく、なぜか二の丸にあった。二の丸にはかつて二の丸御殿と天守代用の御三階櫓が存在した。
城郭には石垣はほとんど使われず、基本的に土塁造りである。土造りの城郭は関東地方の城の特徴である。また、江戸時代設けられた櫓や城門なども当時の文献からみると、かなり少なかったという。徳川御三家の城郭としては、いささか物足りないところがあったが、まさに江戸太平の世の城というところか。
現在残る遺構としては、本丸、二の丸、三の丸の土塁、堀と本丸の表口であった薬医門が残っている。特に注目すべきは各曲輪間に設けられた土塁と堀である。土塁は実に高く、堀は深く堅固に作られている。本丸空堀は現在JR水郡線の線路が走り、二の丸空堀は県道が走っている。洪積台地の急峻な崖地を利用しており、これはまさに難攻不落と言った感じである。よじ登っていくのも不可能であっただろう。石垣造りではないとはいえ、圧倒的なスケール感を感じさせる。
(下写真:本丸空堀)
三の丸の空堀は現在茨城県三の丸庁舎の南西側にある。本丸、二の丸の空堀ほどではないが、スケールの大きさはいささかも劣らない。これら台地を削って深い空堀、高い土塁を持つ城郭を築く手法は佐竹氏の最も得意とするところだったという。関ヶ原の戦い後に転封先となった秋田の久保田城についても、自然の切岸を利用した土造りの名城だ。
(下写真:三の丸空堀)
本丸空堀にかかる端を渡ると、本丸内部に入る。現在本丸は水戸第一高校の敷地となっている。ここに城内唯一の建築遺構である巨大な薬医門が建っている。もともと本丸入口に建てられていた橋詰門であり、佐竹氏時代の遺構であるという。明治の廃城時に城外に移されたが、1981年に現在の地に再移築された。
(下写真:薬医門)
水戸城を訪れたら、あわせて見ておきたいのが偕楽園と弘道館である。偕楽園は9代目藩主・徳川斉昭により造られ、庭園内には梅林が数多く植えられ(有事に際の非常食ともなる)ており、春先には美しい梅の花が見られる。偕楽園は岡山の後楽園、金沢の兼六園とともに、日本の三大庭園の一つにに挙げられる。
(下写真:偕楽園好文亭)
そして、弘道館は同じく徳川斉昭が三の丸に設けた藩校である。同時期に全国で設けられた藩校の中でも突出して規模が大きく、現在でも正庁・正門などの建物が残っている。江戸時代後期の不安定な政情の中、この藩校から数多くの人物が世に輩出している。歴史の息吹を感じさせる史跡だと思う。
(下写真:弘道館至善堂)
4. 城のポイント
①梅の香り麗しい水戸藩の牙城 ⇒関東地方の城らしく総土塁造りで構えられた城
②城の中で唯一残る建造物である薬医門 ⇒本丸表口を守る格式高い門
③水戸城の近くにある弘道館と快楽園 ⇒江戸時代を通じて文武に優れた人材を輩出
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