田原城

1. 城のデータ

[所在地] 愛知県田原市田原  

[築城年] 1480年  

[築城者] 戸田宗光

[遺 構] 本丸、二の丸、水堀、空堀、土塁、石垣

[別 称] 巴江城  

[形 状] 丘城   

[登城年] 2014年8月13日

(※トップ写真:田原城・復興二の丸櫓)


2. 城の歴史

田原城は駿河の守護大名・今川氏の庇護を受け、渥美半島全域を領有した戸田宗光によって1480年ころ築城された。1560年桶狭間において今川義元が戦死すると、松平元康(徳川家康)は田原城を攻め落とし、本多広孝・康重父子が城主となった。

1590年に家康が関東に移ると、池田輝政が吉田城に入り、田原城には城代が配された。この時に近世城郭としての体裁が整った。1600年関ヶ原の戦い後、戸田尊次が入るが、1664年には三宅康勝に交代し、明治まで三宅氏が世襲することになる。


3. 城の見どころ

田原城は渥美半島の付け根部分に位置し、三河湾に面した地にある。城郭はやや小高い丘の上に築かれており、最高所に本丸、北に藤田曲輪、南に二の丸、三の丸を一列に配置した構造である。各曲輪は谷地形を巧みに利用してつくられており、水堀がその四周を巡っていたといわれる。

現在本丸は巴江神社の境内、二の丸は田原市博物館、三の丸は護国神社の境内となっており、当時の建築物は残念ながら現存していない。しかし、城の追手門である桜門が平成6年に左右の土塀とともに復興されている。ここは城外から二の丸、三の丸に入る城の大手であり、最も厳重な防御線が築かれていたところである。この櫓門は下見板張であり、左右の土塀が海鼠壁になっているところが特徴的だ。海鼠壁というと、金沢城のように、寒冷地の特別仕様かと思っていたが、決して厳寒の地ではないところでも使われていたというのが印象的だった。

(下写真:復興桜門)

基本的に土塁造りの城であるが、この大手付近には石垣で固められており、一番の見どころだ。桜門の左右にある水堀は右側が袖池、左側が柝池(ひょうしぎいけ)と呼ばれている。

(下写真:袖池)

(下写真:柝池)

この桜門をくぐると、二の丸に入るのだが、田原町博物館の入口の所に昭和33年に復興された模擬二重櫓が建っている。天守のなかった田原城において最もシンボル的特徴だったという。二重櫓の中に入ると、江戸時代当時の田原城の復元模型、甲冑などが展示されている。模擬櫓は白漆喰でつくられているが、模型を見ると、どうやら下見板張だったようである。

二の丸を抜けて本丸にたどり着くと、そこは巴江神社である。境内には特に城の遺構と呼べるものは見当たらないが、本丸と二の丸との間の空堀は、谷地形を取り込んだ大規模なものであり、なかなか見ごたえがある。本丸と二の丸をつなぐ土橋の側面は石垣となっているので、ここは要確認しておきたいところだ。

(下写真:本丸と二の丸間の空堀と石垣)

あと、田原城の西側には田原藩の天才家老として名高い、洋学者、南画家として活躍した渡辺崋山を祀る崋山神社がある。一風変わった社殿と、それに「八匁(ぶつ)の訓」の碑などがあるので、田原城とともにあわせて見学しておきたい。


4. 城のポイント

①四周に水堀がめぐる東三河の拠点 

②復興された追手口の桜門と土塁、二の丸模擬二重櫓

③追手口付近、本丸大手口付近の石垣、水堀、空堀 


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