1. 城のデータ
[所在地] 茨城県桜川市真壁町古城
[築城年] 1172年
[築城者] 真壁長幹
[遺 構] 土塁、堀跡など
[別 称] なし
[形 状] 平城
[登城年] 2014年9月22日
(※トップ写真:真壁城・外曲輪南虎口)
2. 城の歴史
真壁氏は常陸平氏の一族・多気(平)直幹の子・長幹を祖とする。真壁郡を本拠とし、真壁氏を名乗った。鎌倉時代は幕府の御家人として活躍。南北朝内乱期には当初南朝方として戦い、真壁城も「関東六城」に数えられたが最終的に北朝方に降っている。
1423年、真壁城は鎌倉公方勢により落城、傍流の真壁朝幹が復帰し本格的な城の整備を実施した。戦国期には真壁氏は佐竹氏と同調する。1602年佐竹氏が出羽秋田へ移された時、真壁房幹も角館城下に移った。次に浅野長政の三男・長重が真壁藩をつくるが、1622年長重が笠間に移ると廃城となった。
3. 城の見どころ
真壁城は筑波連山の足尾山の西山麓に築かれた平城である。本丸を中心として、四重の堀と土塁を周囲に巡らして防御を固めた戦国期の大規模な城郭であった。その規模は茨城県下で屈指の大きさを誇る城郭の一つである。城は東西に展開しており、西側には城下町が発展し、城と城下の周囲の湿地は平城の真壁城を守る天然の要害であった。このあたりは近隣の小田城とも共通している部分があるだろう。
縄張については本丸の周囲に二の丸を、二の丸の東側に中城(三の丸)と呼ばれる曲輪を、そして中城の東側には広大な外曲輪を設けている。基本的に輪郭式の城郭であり、また土塁、堀には折れを巧みに多用していて、攻め寄せる敵兵を効果的に撃退できる構造になっていることに気付く。
まず外曲輪から見学したが、この曲輪が実に広い。そして周囲の土塁は高く、堀は深い。延々と伸びる塁線は圧倒的だ。外曲輪の東先端には鹿島神社が現在鎮座している。見どころは外曲輪南側の巨大な土塁と、それに隣接する南虎口だ。南側の土塁はなんと高さ10m以上はあるのではないかと思う大規模なものだ。また、南虎口はL字状に屈曲する枡形虎口となっている。
(下写真:外曲輪の土塁と堀)
(下写真:外曲輪南側の土塁)
外曲輪から中城(三の丸)へは連結する土橋を渡ることになる。中城の土塁と堀もなかなか見ごたえのある大規模なものだ。中城には池を備えた庭園遺構が発見されており、様々な建物群の跡が発見されているということだ。実際私が見学した時も、現地で10数人程度の人がおり、調査が進められていた。
(下写真:中城土塁と堀)
中城(三の丸)からさらに堀をわたると本丸に入る。本丸は現在体育館の敷地と、稲荷神社の境内となっている。木々で覆われていてよくわからなかったが、稲荷神社の横が当時虎口だったようだ。また、神社の社のそばに真壁城跡の石碑があった。
唯一建造物の遺構として、真壁城跡からさらに北方にある雨引山法楽寺の山門が真壁城の城門であったと伝わる。真壁氏が出羽秋田に移る際に法楽寺に寄進され移築されたという。後世の改修を受けていると思うが、実に堂々とした門である。
(下写真:雨引山楽法寺・移築城門)
4. 城のポイント
①四重の堀と土塁に囲まれた平城 ⇒南朝方「関東六城」に数えられた巨城
②各曲輪の土塁と堀 ⇒外曲輪、中城(三の丸)の土塁と堀が特に大規模
③真壁城の城門を移築したとされる法楽寺の山門
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