小田城

1. 城のデータ

[所在地] 茨城県つくば市小田  

[築城年] 1185年

[築城者] 八田知家

[遺 構] 曲輪、土塁、櫓台跡、堀跡など

[別 称] なし  

[形 状] 平城  

[登城年] 2014年9月22日

(※トップ写真:小田城・本丸東側の土塁と堀)


2. 城の歴史

1185年に常陸守護に任じられた八田知家は、小田城の原型となる館を築いた。知家の子・知重の代から小田家を称する。7代当主・治久は南北朝騒乱の頃、南朝方につき、北畠親房や春日顕国らを城に迎え、親房はここで「神皇正統記」を記す。

戦国時代には、小田氏最後の当主・氏治が結城氏、佐竹氏、上杉氏らに敗れ、そのたびに復活し城の奪還を繰り返したが、最終的に佐竹氏に敗れて小田城を失い、豊臣秀吉の小田原平定戦では北条氏についたため、戦後取りつぶしとなった。小田城は佐竹氏の家臣が入ったが、江戸時代初期に廃城となった。


3. 城の見どころ

小田城はつくば市の北方、筑波山を背後に控える平地に立地する城である。城の周辺は古い集落と田園地帯が拡がっている。市街化されず田園地帯になっていたためか、城の遺構状態は非常に良好で、早くから発掘調査等も進められてきた。また、本丸を横断していた関東鉄道の路線も現在ではなくなり、周辺のサイクリングコースとともに整備が進んでいる。

小田城は当初単郭方形の城館であったが、時代とともに改修が施され、複雑な曲輪構造を持つ城へと発展していった。中世城郭としては珍しい大規模な平城である。城の中心は東西120m、南北140mの方形の本丸(曲輪Ⅰ)であり、土塁と水堀に囲まれていた。土塁の北東、南東、北西の隅部には櫓台の跡がある。

(下写真:本丸南側の土塁と涼台跡)

本丸の東西南北の土塁、堀はいずれもよく保存整備されている。周辺の堀は通常は水堀だということだが、登城した際は渇水期だったためか、水が干上がった状態だった。また、本丸内には建物跡、庭園跡などの整備も進められている。

(下写真:本丸北側の土塁と堀)

本丸を中心として、曲輪Ⅱ、曲輪Ⅲ、曲輪Ⅳ(曲輪名はどうやら仮称らしい)など、数多くの曲輪と堀によって囲まれていた。全体の規模は東西1km、南北700mに及ぶ。堀については一の堀から四の堀まであり、輪郭状に何重にも防御態勢を整えており、平城という防御面での弱点を大いに補っている。しかも、戦国時代には城の西から南にかけて桜川の氾濫原につながる湿地帯であったとされ、攻めるに難しく、守りやすい天然の要害であったことであろう(とはいえ、戦国時代何度も落城したようだが)。

現在よく整備されているのは本丸の他に、本丸の東側にあたる東曲輪、本丸の南西側にあたる南西馬出曲輪がある。いずれも土塁と堀に囲まれた曲輪で、本丸の馬出状に築かれた出丸空間だったようだ。ちなみに南西馬出曲輪は整備作業中で立入できなかった。また、小田保育所の横には本丸の北側にあたる丸馬出状の土塁の遺構が何となく確認できる。

(下写真:南西馬出曲輪)

唯一の建造物遺構として、小田城の北西に位置する龍勝寺の大門が小田城の城門を移築したものといわれる。薬医門形式の重厚な門で、佐竹氏の時代に改修されており、門の棟部の瓦には佐竹氏の家紋である「扇に月丸」がみられる。

(下写真:龍勝寺の移築城門)


-再登城後の追記-

2014年12月6日に小田城発掘調査の成果報告会に参加した。今回平成26年度の成果として、曲輪Ⅴの土塁跡や障子堀の跡が確認されたことである。特に南側に位置する堀跡が格子状に区切られた障子堀は、南北約14m、堀跡の南半分は浅く、北半分は深いつくりとなっている。畝は急斜面で堀底から1m以上の高さがあり、敵の侵入に備えたであろうことがわかる。障子堀といえば、北条氏特有の遺構であるが、同じ関東地方の城郭であるため、何らかの影響があったのかもしれない。

(下写真:曲輪Ⅴの発掘された障子堀)


4. 城のポイント

①何重もの堀と土塁に囲まれた平城 ⇒複雑な曲輪と堀に囲まれていた

②整備されている本丸の土塁と堀 ⇒土塁は高く、堀は深い 

③小田城の城門を移築したとされる龍勝寺の大門


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