笠間城

1. 城のデータ

[所在地] 茨城県笠間市笠間  

[築城年] 1219年、1598年  

[築城者] 笠間時朝、蒲生郷成

[遺 構] 天守台、石垣、土塁、堀、井戸など

[別 称] 桂城  

[形 状] 山城  

[登城年] 2014年12月14日

(※トップ写真:笠間城・移築された八幡台櫓)


2. 城の歴史

記録に笠間城が登場するのは1219年のことで、宇都宮氏の一族・塩谷時朝が佐白山の麓に徳蔵寺の僧兵と戦うための城を築いたという。時朝は姓を笠間に改め、笠間城を拠点に戦国時代まで、350年間にわたり笠間の地を支配することになる。

1590年の豊臣秀吉による小田原平定時、笠間綱家は北条方についたため、笠間氏は滅亡。1598年、宇都宮城主・蒲生秀行の家臣・蒲生郷成が現在の城郭につくり上げた。関ヶ原の戦い後、松平氏、小笠原氏、松平氏、永井氏、浅野氏、井上氏とかわり、1747年に牧野貞通が8万石で入り、明治まで存続する。


3. 城の見どころ

笠間城は標高182mの佐白山(さしろさん)に築かれた近世城郭である。関東地方では珍しく、山上の天守曲輪が石垣造りで築かれた山城である。谷や断崖を活かすなど、天然の地形をうまく利用し、要所に堀切、土塁、石垣を築き、守りを固めている。

山上の曲輪に行く前に、山麓付近の城主下屋敷跡から行くのが良い。江戸時代に入ってからは山上の生活は不便であったためか、浅野長重が城主の時代に、麓に屋敷がつくられるようになった。この浅野氏は後に「忠臣蔵」で有名になる赤穂藩主・浅野(内匠頭)長矩の祖である。その縁あってか、下屋敷跡に大石内蔵助の像や、義士顕彰碑などが立てられている。

(下写真:城主下屋敷跡)

山上の城郭部は、東西約140m×南北約70mのT字形をした本丸を中心として、北側下方に二の丸、三の丸が配置されていた。本丸は当時御殿や櫓などがあった曲輪であり、現在も石垣の一部や、櫓台跡、土塁などが残っている。特に八幡台櫓があったといわれる南側土塁付近は現在も良好に残っている。

広大な本丸の東方には堀切を挟んで独立した天守曲輪がある。ここから巨石があちらこちらに見られ、佐白山自体が岩山であることがわかるだろう。天守曲輪最下段に残る石垣は、隅部がほぼ完成された算木積となっており、笠間城内で最も見どころの石垣といえる。ただ、残念ながら東日本大震災の影響のためか、崩れた石垣の一部がまだ修復されていない状態であった。

(下写真:天守曲輪石垣)

天守曲輪最上段には佐志能神社が鎮座している。二重天守があったところといわれ、社自体が天守の部材を利用してつくられたものと伝わる。本殿を囲む築地塀も天守の瓦が利用されたという。佐志能神社からは笠間市街を見渡せる場所にあるが、周囲の木々が生い茂っているため、眺望はあまり良くなかった。

(下写真:佐志能神社)

笠間城跡の北側、城下の真浄寺には本丸にあった八幡台櫓が七面堂として移築現存する。寺院としての改変が見られるが、解体修理によって保存状態もよい。平時は武器庫、戦時は物見櫓として使われたという。

また、佐城小学校の東側、川を挟んだ集落の民家に2つの城門が移築現存する。いずれも明治時代初期に移築されたもので、薬医門形式の格式ある門である。

(下写真:移築された薬医門)

(下写真:移築された裏門)



4. 城のポイント

①石垣を多用した山城 ⇒天然の地形を生かした石垣造りの城

②天守曲輪最下段に残る石垣 ⇒隅部が算木積となっており、高い技術が見られる 

③城下の真浄寺に移築現存する八幡台櫓、民家に残る2つの城門

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