1. 城のデータ
[所在地] 千葉県印旛郡酒々井町(一部佐倉市)
[築城年] 1469~87年
[築城者] 千葉輔胤
[遺 構] 土塁、堀など
[別 称] 将門山城
[形 状] 山城
[登城年] 2014年12月21日
(※トップ写真:本佐倉城・東山馬場跡の城跡碑)
2. 城の歴史
千葉宗家は千葉城を本拠としていたが、1454年の享徳の乱の際、18代・千葉胤宣の大叔父・馬加(千葉)康胤らが千葉城を攻め落とし、康胤が千葉宗家を乗っ取る形となった。康胤の孫で、21代・千葉輔胤の代に、上杉家の家宰・太田道灌に攻められた際に新たな本拠地として築かれたのが本佐倉城であった。
本佐倉城は立地に難があっため、佐倉城の築城を開始するが、当主がたびたび暗殺に遭い中断に追い込まれている。北条氏の傘下にあった本佐倉城も1590年、豊臣秀吉による小田原平定により千葉氏も滅亡、1617年に本佐倉城は廃城となった。
3. 城の見どころ
本佐倉城は戦国大名・千葉氏の居城として発展した城で、印旛沼の湿地帯を北側にした台地上に曲輪が設けられていた。城の規模は東西約700m、南北約800mと、戦国時代の山城としてはかなり大規模な城郭であるといえる。現在は、周辺が宅地と田園地帯となっているが、城が築かれた当時は城のすぐ北側まで印旛沼が迫り、周囲を湿地帯で囲まれた要害の地であった。
城の縄張は、大きく7つの内郭と3つの外郭とに分かれる。内郭の中心が東側に突き出した城山(Ⅰ郭)であり、殿舎や会所などがあったところであった。現在建物や塀、櫓跡などを平面表示してわかりやすく保存されている。周囲は土塁で囲まれ、南西に虎口がある。虎口はU字状にカーブする形状となっている。
(下写真:城山虎口)
城山(Ⅰ郭)の西隣が奥ノ山(Ⅱ郭)と呼ばれ、千葉氏の氏神であった妙見宮が祀られていた曲輪であった。この奥ノ山(Ⅱ郭)と城山(Ⅰ郭)とを分断する大堀切は必見の遺構である。
(下写真:城山と奥ノ山間の大堀切)
さらに奥ノ山(Ⅱ郭)の西側が倉跡(Ⅲ郭)で、上・中・下と3段に分けられた大きな曲輪があり、その西側にセツテイ山(Ⅶ郭)と名付けられた曲輪があった。この倉跡(Ⅲ郭)とセツテイ山(Ⅶ郭)の間の堀切の高低差は約10mもあり、さらに堀底の通路は真っ直ぐに見通せないように曲がりくねって造られている。
(下写真:倉跡とセツテイ山間の堀切)
城山(Ⅰ郭)、奥ノ山(Ⅱ郭)、倉跡(Ⅲ郭)、セツテイ山(Ⅶ郭)は東西にほぼ一直線に並ぶ連郭式の形状を構成しており、さらに北側の東光寺ビョウ(Ⅵ郭)、Ⅳ郭、東山馬場(Ⅴ郭)などの曲輪群が取りついている。特に見どころは、北側の東光寺ビョウ(Ⅵ郭)から東山馬場(Ⅴ郭)、Ⅳ郭に入るところに設けられた東山虎口である。人一人がやっと通れるような、狭く蛇行した通路に、当時は2つの門を配置して非常に厳重に防御されていた。虎口付近の土塁(切岸)は実に高く圧巻である。また、この高台から北側を遠望すると、京成線を超えて遠く筑波山まで望むことができる。
(下写真:東山虎口)
外郭は内郭の南西側に拡がっており、土塁や堀の巨大な外郭ラインを構成する荒上と呼ばれる曲輪、そして荒上の南に位置する佐倉根小屋(未調査地区)、その南東側に向根古谷が配置されていた。特に向根古谷は、二重の空堀と馬出が良好に現存しており、余力があれば確認しておきたいところだ。
4. 城のポイント
①台地を利用した土の城 ⇒戦国大名・千葉氏が築いた本拠となる城
②広範囲に残る曲輪群 ⇒7つの内郭と3つの外郭が広範囲に残る
③内郭に設けられた堀切、東山虎口など
0コメント