1. 城のデータ
[所在地] 茨城県鹿嶋市城山
[築城年] 1368年ころ
[築城者] 鹿島氏
[遺 構] 土塁、堀
[別 称] 吉岡城
[形 状] 平山城
[登城年] 2015年1月16日
(※トップ写真:鹿島城・本丸跡)
2. 城の歴史
鹿島城は1368年頃、鹿島氏(常陸大掾氏族)によって本格的に築かれた。その後代々、鹿島氏が戦国時代末期まで世襲している。1520年ころ鹿島義幹が大改造を行い、それが高天原合戦につながったという。1591年、鹿島清秀父子は常陸太田の佐竹義宜に謀殺され、鹿島城は落城し、歴史の幕を閉じた。
その後、佐竹氏は秋田へ国替えを命ぜられ、徳川家康は鹿島氏の一族を総大行事職に任命し、近隣の鹿島神宮の要職に就かせている。現在本丸跡は城山公園として整備されており、二の丸は県立鹿島高校、新町の区域などとなっている。
3. 城の見どころ
鹿島城は北浦の東岸、鹿島神宮の西方約800mの台地周縁に立地している。城跡は小高い丘の上にたっており、最高所にたつと周囲をよく遠望することができる。周辺は広大な湖と、田畑に囲まれた美しい景勝の地にある。現在は本丸跡が城山公園となっており、市民の憩いの場となっている。
本丸は幅広く、深い堀に囲まれており、残存状態は比較的良好である。特に城山公園入口となっている東虎口の周辺の堀は雄大である。戦国期までの城郭としては、かなりの規模だと思う。この本丸を巡る幅広い堀が鹿島城の一番の見どころだ。
(下写真:本丸堀)
本丸は200m四方ほどもある、平坦で広大な曲輪となっている。現在は桜が植えられており、桜の名所となっているようだ。本丸跡の西端には明治時代に建立された、鹿島城の城址記念碑が立っている。城址は漢文で書かれているので、読むのは難解であるが、隣に現在語訳の看板があるので、大変助かる。本丸からは北浦を始め、鹿島平野を一望におさめることができる。
(下写真:本丸跡に立つ城址記念碑)
本丸の西側には山麓に降りる階段が設けられていて、下っていくと途中に平坦地がある。おそらくここは往時の帯曲輪だったと考えられる。戦国期の帯曲輪としては大きさも結構広い。ここから城山を見上げると、本丸西側の急峻な切岸がよくわかる。
さらには、城山西端には水堀がかろうじて残存している。しかしながら、現在はかなりの草で埋もれてしまっており、ここが水堀であったということを知らないと、おそらく気付かないだろう。
(下写真:水堀跡)
城山公園(本丸跡)の南側はかつて二の丸であったが、現在は鹿島高校の敷地となっており、遺構は確認できない。
4. 城のポイント
①戦国末期まで存在した鹿島氏の城 ⇒佐竹氏により落城
②本丸跡にたつ城址記念碑
③本丸周辺に巡る広大な堀、西端に残存する水堀など
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