1. 城のデータ
[所在地] 兵庫県尼崎市北城内・南城内
[築城年] 1519年、1617年
[築城者] 細川高国、戸田氏鉄
[遺 構] 外堀(庄下川)など
[別 称] 琴浦城、尼丘城
[形 状] 平城
[登城日] 2015年2月8日
(※トップ写真:尼崎城・城址公園の復興石垣)
2. 城の歴史
尼崎城の築城は1519年、細川高国が築いたとされる。しかし、この古城は少し離れた位置にあったとの説もあり、現在もよくわかっていない。天正期(1573~1592年)には荒木村重が在城、その後池田輝政、三好秀次らが城主となっている。
関ヶ原の戦いを経て1617年、戸田氏鉄が近江膳所城から5万石で入封、西国抑えの要として近世尼崎城が築かれた。1635年に氏鉄が美濃大垣城に移封となり、遠江から青山幸成が入った。青山氏4代のあと、1711年には掛川城から松平忠喬が4万石で入り、以後松平氏が7代城主を勤め明治に至る。
3. 城の見どころ
尼崎城は阪神電鉄・尼崎駅から徒歩3分ほどの近距離にあった近世城郭であった。江戸時代、城の西側を流れる庄下川を外堀とし、その河口付近の堤防上に築かれた本丸の周囲を二の丸、三の丸などの曲輪が螺旋(らせん)状に配置され、各曲輪間には幅広い三重の水堀が囲む典型的な水城であった。
(下写真:庄下川西岸から城址公園を望む)
加えて、本丸には中央に御殿、北東隅には四重四階の天守がそびえ、他の隅部には三重櫓が配置され、これらを多門櫓と塀で取り囲む厳重な構えであった。本丸の城門は3ヶ所あり、その全てを枡形虎口としており、鉄壁の防衛線を形成していた。
近世尼崎城を築いた当時の戸田氏鉄は5万石であり、小大名の城としては家格をかなり超えた巨大な城であったが、これには尼崎城が畿内防衛の要であったというところが理由のようである。何といっても西国から大坂の地に入るには、この尼崎を通り抜けることになるため、尼崎城は大坂城の西の守りとしても機能していた。事実、代々譜代大名が尼崎城主となっている。
しかし、その威容を誇った城郭も明治の廃城以降、市街地化が進んでしまい、城の遺構といえるものが全て消滅してしまった。現在城跡の一部(西三の丸跡)は尼崎城址公園として整備されており、この城址公園から南側の中央図書館にかけて、模擬石垣と白塗りの土塀が復興されている。しかし、これはかつての尼崎城の遺構ではないことを認識して見る必要がある。
(下写真:尼崎城址公園石碑)
(下写真:中央図書館横の復興石垣)
城の外堀の役割をしていた庄下川は現在も変わらずに城跡の横を流れている。庄下川の西岸から尼崎城址公園を眺めれば、かつての城の雄姿を少しは想像できるかもしれない。
4. 城のポイント
①四重天守が西へ睨みをきかせた要の城 ⇒大坂の西の防衛拠点として機能した
②城の遺構はほぼ無いが、城址公園内に復興石垣と土塀がある
③城の西側を流れ外堀の役目をしていた庄下川
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