1. 城のデータ
[所在地] 千葉県松戸市大谷口
[築城年] 15世紀中ごろ
[築城者] 原氏
[遺 構] 曲輪、土塁、畝堀、障子堀
[別 称] 大谷口城
[形 状] 平山城
[登城年] 2015年2月28日
(※トップ写真:小金城・金杉口障子堀)
2. 城の歴史
小金城は15世紀中ごろ、千葉氏勢力下の原氏による築城と伝わる。16世紀前半に千葉氏家臣の高城氏が領有した。高城氏は千葉氏の一族、または原氏の一族といわれ、戦国末期には現在の松戸、市川、船橋、鎌ヶ谷、沼南、柏、安孫子などを支配する東葛飾地方最大の領主であった。
高城氏は1538年、1590年と2度の国府台合戦には北条方として戦っており、戦国末期には北条氏配下となっていた。1590年、豊臣秀吉による小田原攻めの際、北条氏とともに運命をともにし滅亡に至る。廃城となったのはそのころと思われる。
3. 城の見どころ
小金城は江戸川東、下総台地から延びた台地上に位置する平山城である。小金城の規模は南北約600m、東西約800mに及ぶ千葉県下最大級の中世城郭であった。大規模な土木工事が施され、高さ1~2mの土塁、深さ10m前後の空堀を縦横に巡らせ、本城、中城、番場など9~10の曲輪を設けた城郭であった。
現在は宅地造成により、その大規模な城郭もほとんどが消滅したが、外曲輪の一部が大谷口歴史公園として整備されている。公園入口はかつての金杉口跡であり、小金城には大手口(東)、達磨口(北東)、金杉口(北)、大谷口(南)の4つの虎口があった。この平坦地から見上げる切岸はなかなか険しいことがわかる。
(下写真:金杉口跡)
金杉口跡の奥に障子堀がある。幅4m以上、深さ2.5mの空堀なのだが、敵の侵入を遮る間仕切り(障子)が見当たらなかった。おそらく、遺構保存のために埋め戻したのだろう。
階段を上がると、広場にたどり着く。ここが番場と呼ばれる曲輪の主郭部で、周囲には低いが土塁が延々と取り巻いている。
(下写真:番場と周囲の土塁)
この南側に畝堀跡がある。幅7m、深さ3mの規模で、堀底に高さ90cmほどの畝が連続して入っていたとのことだが、こちらも遺構保存のためか、畝が見られず残念だった。障子堀や畝堀は北条氏特有の遺構で、山中城など関東各地で類例が見られる。
(下写真:畝堀)
あと、現在の大倉記念病院の南側に達磨口跡が残されている。こちらも周囲よりも高台となっており、その中でも、城下に面する切岸はもしかしたら櫓台跡ではないかと推測される。ここには昭和62年に建てられた小金城の顕彰碑がたっている。
(下写真:達磨口切岸と顕彰碑)
4. 城のポイント
①千葉県下屈指の大城郭 ⇒千葉氏家臣・高城氏の城郭
②金杉口の障子堀、畝堀
③現在は大谷口歴史公園と整備されている
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